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山形六日町教会

2017年5月7日

聖書:イザヤ書53章5~6節 ルカによる福音書12章35~48節
説教シリーズ ルカ福音書-68「目を覚まして」波多野保夫牧師

春を待ちわびたかの様に、その美しさを見せてくれた桜も早や葉桜となってしまいました。最近では5時くらいには明るくなり目が覚めてしまうこともしばしばです。これは年を取ったせいに違いありません。唐の詩人孟浩然(もうこうねん)の有名な詩は「春眠暁を覚えず:春の眠りは心地よくて、朝が来たことも気付かない」と歌いますが、この詩が懐かしく思い出されます。聖書にも居眠りの話がいくつかあります。ゲッセマネの園で十字架を前にした主が血のにじむほどの祈りを捧げている時、ペトロたちは眠ってしまいました。イエス様の言葉です。 「あなたがたはそんなに、ひと時もわたしと一緒に目をさましていることが、できなかったのか。誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい。心は熱しているが、肉体が弱いのである」。(マタイ26:40,41)手紙の中にも「目を覚ましていなさい。」と言われています。目を覚ましていなさい。信仰に基づいてしっかり立ちなさい。雄々しく強く生きなさい。(コリントの信徒への手紙一 16:13)従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。(テサロニケの信徒への手紙一 5:6) パウロの言葉です。身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。(ペトロの手紙一 5:8) ゲッセマネの園で眠り込んでしまったペトロの言葉です。

本日与えられましたルカ福音書12章35節以下には「目を覚ましている僕」と言う小見出しが付けられています。先ほど山口長老に全体を読んでいただいたので、たとえ話のストーリーはお分かりいただいたと思います。しかしその解釈、意味するところを正しく知るのはそれほどたやすくありません。133ページの上の段を見ていただくと、40節と41節の間に段落があります。どちらも主人の帰宅が遅くなった時の話ですが、前段では主人と僕たちの関係が述べられ、後段では主人と管理人の関係が述べられています。古くからこのような解釈があります。前半は主イエスが自分に従う者に対して語りかけられたのですが、41節でペトロが「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」このように質問したので、話を教会の指導者たち、今日でいえば牧師や長老たちでしょうか、そういった人たちに向けて語られたのだというのです。もう一つは、前段・後段ともに少し異なった角度からクリスチャンのあるべき姿を語られているとします。
確かに文章の構成的には、前段がクリスチャン全体、後段が牧師・長老と読むことは可能です。しかし、48節の最後の文章、「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」ここに注目するならば、多く与えられた者、すなわちキリストのあり余るほどの恵みをいただいている点において、クリスチャンの間に差はありません。それぞれに相応しく十分な恵みを与えて下さるのです。だとしたら、この譬え全体をクリスチャン全員へのものとする方が良いでしょう。主イエスがこの譬えで語られていることは、罰を与える脅しではなく、私たちがよりよい人生を送るための忠告なのです。
12章35節 12:35 「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。 腰に帯を締めるとはパレスチナの裾の長い衣服は働きにくいので、帯を締めてからげる意味です。ちょうど和服でのタスキに相当します。ともし火を灯しておくのも明かりの準備です。スイッチ一つで照明がともる時代ではありません。何の準備か?それは主人が突然婚礼から帰ってくることへの準備でした。パレスチナの婚礼は、それこそ村人全員の楽しみの時でした。祭りが毎年決まった時期の楽しみであるのに対して、婚礼は不定期です。それだけに派手に祝われました。カナで行われた結婚式でぶどう酒が足りなくなった際、主イエスが最初の奇跡を行われましたが、100リットル以上の水がめ6個に水を一杯に入れたと記されています。婚礼は、始まる日時は決まっていますが終わりは決まっていません。数日、あるいはもっと長期間に及び、新郎新婦が疲れ果てて家に帰ることで終わりました。いつ終わりになるのかは誰も知らなかったのです。前半にあります僕、そして後半にあります管理の仕事を任されている僕、彼らは共に奴隷でした。当時は、戦いで負けた国の者たちが奴隷として仕えましたから、優秀な者もおり忠実に仕えるのであれば、主人が全財産の管理を任せることもまれではありません。43節「12:43 主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。12:44 確かに言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。」は、このような状況を告げています。婚礼に出かけていた主人が突然帰ってくる。その主人が不在の間に取る僕の態度について述べられています。いつなのか分からないその時に備えてしっかりと準備をしているのか、あるいは不在の間、自分に管理が任されているといって勝手な行動をとるのか。主人が突然帰って来る時、40節には12:40 あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。とあります。
イエス様はご自分のことを良く「人の子」と言う呼び方をされましたから、これは再び地上に来られる時、すなわち終末の時をあらわしています。しかし、それがいつなのかは神様だけがご存知です。「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。」マタイによる福音書 24章36節のみ言葉です。
今、父なる神と共にいらっしゃる、その主イエス・キリストが再びこの地上においでになる終末の時。これはクリスチャンにとって、すなわち主イエスを救い主として告白するものにとって希望の日であり、喜びの日なのです。ヨハネの黙示録によれば、この日主イエスは全てのものを裁きにかけられます。最後の審判と呼ばれます。しかし、その裁きの場では、世の邪悪な者は全て滅ぼされキリストに従う者は救われることが約束されています。新約聖書の一番最後、黙示録22章20節21節は次の様につげます。22:20 以上すべてを証しする方が、言われる。「然り、わたしはすぐに来る。」アーメン、主イエスよ、来てください。22:21 主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように。クリスチャンは2000年の歴史の中で、どんな逆境の時にあってもこのキリストが再び地上に来られる時、再臨の時を希望の時として耐えてきたのです。しかし、2017年5月7日の今日。終末はまだ来ていません。ほとんどの方があと10数時間後には、5月8日が始まり、239日後には2018年が始まることを疑いません。私たちは今や終末は来ないものと、暗黙の裡に理解しているのではないでしょうか。だとしたら、それは私たちのおごりであり、聖書の告げることとは違います。12:38 主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。これが聖書が告げるみ言葉だからです。もちろん私たちは「世の終わりが来るので悪いことをしている者は地獄に落ちる。悔改めなさい。」この様に恐怖心をあおることはしません。しかし、キリストが再び地上に来られることは確実で有り、その日のために腰に帯をし、ともし火を灯しておくことは、私たちの人生を豊かで素晴らしいものにするのです。終末の時はキリストにお会いする時であります。聖書の語る通りです。しかし、私たちにはもう一つキリストにお会いする日があります。それは、私たちが天に召される日、すなわち死を迎える日です。復活なさった主が40日後に天に昇られて以来、地上で主にお会いした者はだれもおりません。ただ主が遣わして下さった聖霊の息吹を感じるのです。しかし、私たちが天に召される日、その日はキリストにお会いする日でありますから、その日を個人的な終末の日と理解することが出来ます。だとしたら、本日の聖書箇所を両方の終末、キリストの再臨の日とともに、私たちが死を迎える日、その日のための備えなさいと読むことはまったく適切な読み方であります。
ヘブライ人への手紙9章27節28節です。9:27 また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、9:28 キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。キリストにお会いする二つの時、終末と個人の死の双方に備える必要性を覚える時、12章40節 12:40 あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。 私がキリストにお会いする日が思いがけない時にやって来る。この聖句が極めてリアリティーを持ったものとして響くのです。
ヤコブの手紙の著者といわれます、使徒ヤコブ、彼はイエス・キリストの弟だと伝えられており、主の兄弟ヤコブと呼ばれます。ペンテコステの日に聖霊が降りエルサレムに教会が誕生しましたが、彼はその指導的立場に立ちました。しかし62年に殉教したと伝えられています。彼が書きましたヤコブの手紙4章13節以下です。4:13 よく聞きなさい。「今日か明日、これこれの町へ行って一年間滞在し、商売をして金もうけをしよう」と言う人たち、4:14 あなたがたには自分の命がどうなるか、明日のことは分からないのです。あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消えて行く霧にすぎません。4:15 むしろ、あなたがたは、「主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう」と言うべきです。4:16 ところが、実際は、誇り高ぶっています。そのような誇りはすべて、悪いことです。4:17 人がなすべき善を知りながら、それを行わないのは、その人にとって罪です。要約すれば、「やるべきことはすぐやれ、今こそがその時なのだ。」この様になります。これは「神様にお会いする準備は今しなさいと。」言うことに他なりません。こうやって聖書を順に丁寧に読んで来ますと、言われていること「やるべきことはすぐやれ」と言うことはわかります。主は言われるのです。 12:40 あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。
しかし、ここでもう一人の私がつぶやくのです。「それではやるべきこととは何ですか?」 この質問、これはほとんどの場合、分かっていながらやらないことの言い訳です。ある先輩の牧師から次の様な話を聞きました。ある日のこと、礼拝を終えたころ、その日の礼拝には欠席された長老さんから、この方は長い間忠実に教会に仕えてこられたそうですが、自宅に来て欲しいと電話があったそうです。急ぎの相談があるとの事でしたから駆けつけました。するとこの長老さんは「私はどうしたらもっと神に近づくことが出来るのか?」と問うのです。以前から健康の不安をお聞きしていたので、この質問の意味は直ぐに理解出来ました。この長老さんは神様にお会いする準備を手助けして欲しいと願っているのです。そこで、彼の聖書を開いて読みました。黙示録3章20節にある主イエスの言葉です。3:20 見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。「この有名はイエス様の言葉はご存知ですね?」「良く知っています。」「ではイエス様をお迎えするにはどうすれば良いのでしょうか?」「扉を開けるのです。」「そうですね。心の扉を開けるのです。それでは、今まで自分の心の扉を開いて、「イエス様どうぞお入りください。」と言ったことはおありでしょうか?」「いいえ、その言葉を口にしたことはありません。」どうでしょうか、皆さんはこの言葉、「イエス様どうぞお入りください。」この言葉を口にして祈ったことはおありでしょうか?
私たちはやるべきことは知っているのです。しかし、それを実際には行わない、あるいは行わないことが多いのではないでしょうか。どうぞ今晩寝る前で結構です。「イエス様、私は心の扉を開きます。どうぞお入りください。」この様に祈って下さい。使徒ペトロにこの様な証言があります。4:12 ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。(使徒4:12) イエス・キリストによってのみ私たちは救われるのです。頑ななもう一人の私はそれでも言うでしょう。「イエス様に心の中に入って下さいと祈ったとして、それでどうなるのかわからない。」 これはもうわかりたくないのですね。答えは明白です。先週、今日の聖書箇所ルカ福音書12章35節以下に先立ちます、13節「愚かな金持ち」の譬えと22節「思い悩むな」からみ言葉を聞きました。貪欲であり自己中心的であり、思い悩むこと、これらは私たちの人生の目的、すなわち神の愛の中にあって生きることを見失わせる罪なのです。そしてその罪から自由になる最良の方法をも聞きました。
12章31節から34節をお読みします。12:31 ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。12:32 小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。12:33 自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。12:34 あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。 キリストにお会いする時の準備、それは今日すぐに実行することが求められます。2つのことを行いましょう。
1つ目。今日寝るまでに祈りましょう。「イエス様、私は心の扉を開きます。どうぞお入りください。」
2つ目。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みましょう。貪欲であり自己中心的であり、思い悩むことから解放され、主に近づくことが出来ます。
2つの終末、すなわち約束されている様にキリストにお会いする2つの時。キリストの再臨の時であり、私たちの死の時、この2つの時はもはや恐れの時ではありません。むしろ希望の時と言って良いでしょう。なぜキリストにお会いすることが希望なのでしょうか? それは主が100%信頼できる方だからです。私たちを愛し抜かれる方だからです。
最後に山口長老に読んでいただいたイザヤ書53章5節以下をお読みします。お聞きください。53:5 彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。53:6 わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて 主は彼に負わせられた。祈りましょう。