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山形六日町教会

2017年4月30日

聖書:イザヤ書35章1~4節 ルカによる福音書12章22~34節
説教シリーズ ルカ福音書-67「思い悩むな」波多野保夫牧師

先週の礼拝後に持たれました教会総会におきまして、2017年度教会方針「感謝をもって歩み出そう」と主題聖句『教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。』が承認されました。本日から週報の表紙が新しくなっています。教会創立130周年を今秋に迎えますこの年、主の豊かな恵みのもとに新たな歩みを始めました。共に祈りを合わせて参りたいと思います。
ルカ福音書12章22節以下には「思い悩むな」という小見出しが付けられています。山形六日町教会も重い課題に直面しています。「思い悩む」のではなく勇気をもって前進してまいりましょう。集う私たち一人一人です。日々の生活において様々なことで「思い悩む」ことがあるのではないでしょうか。「すべてを神様にお任せしているので、思い悩むことは何もありません。」この様におっしゃる方がいらっしゃいます。大変羨ましく思う次第です。
この聖書箇所は先立ちます12章13節以下、こちらには「「愚かな金持ち」のたとえ」との小見出しが付けられていますが、この箇所と対をなしています。12章13節は12:13 群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」 この様に群衆の中の一人が自分の兄が遺産を分けてくれない。律法の定めに従って私にも分けてくれるように言って下さいと訴えた際の答えです。 15節は次の様に伝えます。12:15 そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」 そして、ある金持ちの畑が豊作だったと、たとえ話で語られました。新約聖書はギリシャ語で書かれていますが新共同訳聖書では滑らかな日本語を意識してか少しわかりづらくなっているようです。忠実に訳してみるとこうなります。お手元の聖書と比べて下さい。12:17 彼は心の中で、『私はどうすれば良いのだろうか。私には作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、12:18 やがて言った。『そうだこうしよう。私は倉を壊して、もっと大きいのを建て、私はそこに穀物や財産をみなしまい、12:19 私はこう自分の魂に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』
お気づきになったでしょうか。この金持ちは「私は」「わたしは」「私は」と言い続けているのです。現代語では「ミーイズム」とか「自己中」とか言われます。この傾向すなわち自己中心主義的な傾向は、程度の差こそあれ誰にでもあるのでしょうし、また社会的にもある面で認められています。法律を学ぶ学生が最初に学ぶ法理・法律の原理に「カルネアデスの板」と言うのがあるそうです。紀元前2世紀のギリシャ、場所はエーゲ海でしょうか。一隻の船が難破し全員が海に投げ出されました。一人の男が一枚の板切れを見つけてしがみつくと、そこにもう一人の男が来てつかまろうとします。小さな板切れには二人を支える浮力はありません。最初につかまった男は二人目の男を沈めて板を譲らず、助かりました。この行為は緊急避難として罪に問われないと言うのです。これが法律の原理だそうです。しかし、私たちは主イエスを知っています。私たちの罪を担って、何ら罪を犯されなかった方が十字架を負われたことを。20節21節です。 12:20 しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。12:21 自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」厳しい言葉です。ここで13節以下の状況をもう一度見直してみると、群衆の一人は、「律法の定めに従って私にも遺産を分けてくれるように兄に言ってください。」とイエス様に願ったので、これは正当な権利の主張です。
それに対してイエス様がたとえ話で語られた結論は、12:21 自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。なぜ、この様に厳しく語られたのか私は疑問に思いましたが、この疑問を残したまま先に進みたいと思います。12章13節以下では群衆の一人に向かって、将来の安定を求める欲望から生まれる不安と恐れのむなしさを語られたのに対して、22節以下は、弟子たちに向かって、神への信頼の薄さから生じる不安と恐れのむなしさを語られます。順に読んで行きましょう。
12:22 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。12:23 命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ。続けます。12:24 烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか。12:25 あなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。12:26 こんなごく小さな事さえできないのに、なぜ、ほかの事まで思い悩むのか。多くの説明は必要ないでしょう。確かに私たちが思い悩んだところで、何かが改善することは、これはほとんどありません。26節で「こんな小さい事」と翻訳されていますが、寿命をわずかでも延ばすことは必ずしも小さなことではありません。ここは「ほんの少し寿命を延ばすことさえできないのに、なぜ、ほかの事まで思い悩むのか。」この様に訳した方が適切です。
ここで一言注意をすれば、「心配すること」と「心遣いをすること」とはまったく別です。パウロはコリントの信徒への手紙Ⅱで、幾多の苦難を受けたのに加えて、自分が関わった多くの教会への心遣いがあるのだと述べ、次の様に言うのです。【Ⅱコリント 新改訳改訂第3版】11:29 だれかが弱っているのに、わたしも弱らないでおれようか。だれかが罪を犯しているのに、わたしの心が燃えないでおれようか。11:30 もし誇らねばならないのなら、わたしは自分の弱さを誇ろう。彼はコリントの教会に対して、このような心遣いを見せるのです。
ルカ福音書に戻りましょう。27節以下です。12:27 野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。12:28 今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことである。信仰の薄い者たちよ。12:29 あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。山形にも春がやってきました。野山にもまた教会の花壇にも美しい花が咲き誇っています。本当にすべてを創造された神様の御業を誉め称えたくなります。ダビデ王の息子ソロモン王の時代は、イスラエル王国の絶頂期でした。旧約聖書列王記上10章と歴代誌下9章にはシェバの女王の目を通してその栄華の様が物語られています。しかし、野の花の装いはそれに勝るのです。神様は私たちを愛して下さっているではないか。信仰の薄い者たちよ。12:29 あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。思い悩んでグジュグジュする私は主に一喝されてしまいます。「信仰の薄い者よ!最善を尽くしたら後は神様に任せなさい。」この様におっしゃるのです。30節以下です。12:30 それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。
異邦人とは、イエス様の時代にユダヤ人は神から選ばれた特別の民族だと考えていましたから、自分たち以外を異邦人と呼びました。現代ではまだキリストの愛を知らない人たちと読み替えて良いでしょう。一方、私たちクリスチャン、あるいはキリストへと招かれている者は「思い悩むな」です。神様の愛を知っているからです。31節32節 12:31 ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。12:32 小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。「神の国」、マタイ福音書だけには「天の国」とも書かれていますが、どちらも意味は同じです。以前広く用いられました口語訳聖書ではマタイ福音書において「天国」となっていましたが、いわゆる神様がおられる理想郷といった他宗教の言う天上世界との混同を避けるために、新共同訳聖書では「天の国」と訳しています。山形六日町教会の納骨堂には「我らの国籍は天に在り」と刻まれており、私たちが神様の愛の支配の下にあることをはっきりと示しています。お墓は遺骨の安置場所ではなく、復活された主イエスと共にある思い強くする場所であり、終わりの日に神の御許に召された方々と共に生きる、その望みを強くする場所なのです。先週の教会総会に先立ちます主日礼拝説教において申し上げました。『「神の国」あるいは「天の国」は神様の愛の支配のもとにすべてが服することを意味しています。従って完全な形での到来は、私たちの希望として終末の時まで待たなければならないのですが、その先駆けを教会に見ることが出来るのです。』と。すこし乱暴な言い方をすれば、「思い悩んでいる」暇があるなら神様の支配を求めなさい、それは既に真の神であるイエス・キリストが真の人として来られたことで、既に地上に到達しているのだ。2017年の今日、それは教会において表されているではないか、この様になります。12:31 ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。12:32 小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。
細矢長老に読んでいただいたイザヤ書35章1節以下は、イースターの礼拝でご一緒に読みました、神の御業を力強く賛美する詩です。35:1 荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ 砂漠よ、喜び、花を咲かせよ 野ばらの花を一面に咲かせよ。35:2 花を咲かせ 大いに喜んで、声をあげよ。砂漠はレバノンの栄光を与えられ カルメルとシャロンの輝きに飾られる。人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る。35:3 弱った手に力を込め よろめく膝を強くせよ。35:4 心おののく人々に言え。「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。」イスラエルの人々にとってこの詩は、出エジプトの出来事、荒れ野における様々な苦難を恵みの場所に変えられた神を賛美するのです。「思い悩み」とは正反対の喜びがうたわれています。
2017年に生きる私たちの身に起こる様々な苦難の時においても、「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。」この言葉は真実です。いや、旧約聖書の時代に比べてより真実です。なぜなら神は既に人の姿をとって来られました。そして今、主は共にいて下さいます。イザヤ書35章3節4節 35:3 弱った手に力を込め よろめく膝を強くせよ。35:4 心おののく人々に言え。「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。」
ルカによる福音書に戻りましょう。33節34節。12:33 自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。12:34 あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」 ここまで、12章13節以下では「貪欲」について。本日の聖書箇所22節以下では、「思い悩むこと」すなわち心配について、それぞれへの警告が語られました。「貪欲」や「思い悩み」は私たちの人生が何であるのかを見失わせる罪だとおっしゃいます。なぜならばそれらは神への信頼、すなわち信仰の欠如であり、悪魔の好むところだからです。
33節34節はこの罪からの解放が述べられます。しかし、ここで注意したいのはこの言葉が一切の私有財産の所有を禁じているのではないということです。もしそうであるならば、罪からの解放ではなく、裁きを与え罪を増し加える律法の言葉となるでしょう。実際私有財産は主イエス一行も持っていました。ヨハネ福音書13章29節はユダの裏切りを予告なさる場面で 13:29 ある者は、ユダが金入れを預かっていたので、「祭りに必要な物を買いなさい」とか、貧しい人に何か施すようにと、イエスが言われたのだと思っていた。13:30 ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった。 この様に述べ、イスカリオテのユダがお金を管理していたと告げています。歴史的に使徒言行録が原始共産制と呼ばれる共同生活を語りますが、その後、私有財産所持を禁じたのは修道会でした。600年頃修道士ベネディクトスに導かれて、「祈り働け」と言う標語を掲げ、清貧・貞潔・従順に徹して農作業にいそしんだのです。しかし時代を経るに従って堕落していきました。1200年代に入って、十字軍運動の失敗により疲弊した教会に起こったのが、托鉢修道会とよばれる清貧、すなわち「清く貧しく」を旨とする修道会運動でした。フランシスコ会やドミニコ会が起こされ、会則で所有権放棄や金銭受納禁止を定め、托鉢によって食物を得て、様々な社会奉仕を行うとともに、説教に力を注いで伝道し、聖職者に敬意を払うことを求めました。しかし修道会は必要とされる土地や建物など一定の財産を管理し、修道士たちは財産の所有を放棄したのです。
では、ここでの主の言葉をどの様に聞くのか。それは私心をたちのどこに置くのかが問われるのです。12:33 自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。施しという言葉は微妙なところがあります。施すもの、施されるもの。前者が後者に対する優位性を誇るようなことがいささかでもあれば、「あなたたち偽善者は不幸だ!」この様に主イエスから強く非難されるでしょう。
一方で、隣人を愛する気持ちを主は喜んでくださいます。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』「富を天に積む」にはさまざまな方法があります。施しがそうですし、教会への献金は捧げることの出来る大きな喜びを感じさせてくれます。私たち山形六日町教会は教会自体もCSや婦人会も、さらに集う者も、隣人のために様々なものを捧げ奉仕をしています。お金であり時間であり労力などです。大きな喜びです。しかしそれだけではありません、私たちのためにも多くの方が祈ってくださり、様々な捧げものをいただいています。それを喜んで頂戴しています。どうでしょうか、ささげるもの・ささげられるもの、施すもの・施されるものそれぞれが神の愛を感じるとすれば、それは富を天に積んでいることに他ならないでしょう。救いは行いによりませんが、信仰は行いを生むのです。
一つの疑問を残してきました。13節以下で「律法の定めに従って自分にも正当な遺産を分けてくれるように兄に言って下さい。」この様に願った群衆の一人は、貪欲な金持ちのたとえによって12:21 自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。と言われてしまった疑問です。この人は当然ユダヤ教の教育を受けていましたが、主イエスに関心をもち、優れた教師だと認めていました。だから兄に忠告してくれるように願ったのです。厳しい答えは実は彼に対する大いなる愛の故なのです。14節で拒否されているように本来それは律法学者の仕事です。主イエスがなさった事、それはこの男に命の言葉、神の国の真理を語られたのです。その真理は「貪欲の愚かさ」です。22節以下では弟子たちに、「思い悩む愚かさ」を教えられました。
いま、主は私たちに聖書を通して「貪欲の愚かさ」と「思い悩む愚かさ」双方を語られます。さらにその愚かさから逃れ心の自由を得る方法も教えて下さるのです。「神に心を向け、大胆に施し大胆にささげなさい」と。130年目の山形六日町教会の旅路はかくありたいと思います。祈りましょう。