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山形六日町教会

2017年4月23日

聖書:詩編115編1~3節 エフェソの信徒への手紙1章15~23節
「感謝をもって歩みだそう」波多野保夫牧師

本日の礼拝後に、山形六日町教会の2017年度教会総会が開催されます。例年、総会に先立ちます主日礼拝では、長老会が総会に提案しますその年の教会年間主題と主題聖句を通してみ言葉を聞いております。本日の週報表紙には2016年度の主題がそのまま印刷されていますが、これは総会での議決を経ることで心を合わせご一緒に励みたいと思うからです。既に配布されております議案書にあります様に、「感謝をもって歩み出そう」との主題。これには「今秋教会創立130周年を迎える中、1887年以来諸先輩方を通じて、そして今日も私たちに与えられている大いなる主の恵みを感謝するとともに、福音の前進のために、次の10年への新しい歩みをご一緒にスタートする。」この思いが込められています。
主題聖句としてエフェソの信徒への手紙1章23節1:23 教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。この聖句を提案する次第です。
本日はまず先週のイースターの礼拝を思い起こすことから始めたいと思います。「もしも」と言う説教題でみ言葉を聞きました。神は実際にこの地上にナザレのイエスと言う真の人として来られました。真の王が王宮ではなく、宿屋でもなく、馬小屋に誕生された。私たちの負う重荷、苦しみ、嘆きを知り、共に担って下さる方の誕生、これがクリスマスの出来事です。30歳になられた時、ヨルダン川でバプテスマのヨハネから洗礼を受けられました。その時、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。のでありました。かつて、私たちが洗礼を受けた時も同じように、天にも地上にも大きな喜びがあったことを思い起こしていただきたいと思います。しかし、その方は全ての人の罪を一身に負われて十字架の道をお取りになったのです。洗足の木曜日礼拝では、「くぎ」をお配りしその苦しみの一端を味わっていただきました。「もしも」話がここで終わっているのならば、悪魔は大喜びしたことでしょう。彼は40日間の荒野での対決に敗れましたが、様々な機会に復讐を狙っていたからです。実際、悪魔は十字架の出来事の後、3日間は幸せでした。深い悲しみの内に安息日を過ごした、マグダラのマリアたちとの対極にあったのです。彼女は日曜の朝早く墓へ行きました。20:15 イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」20:16 イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。「マリア」この呼びかけが全てを変えました。大きな悲しみは大きな喜びへと変わったのです。 主イエスは以前から復活なさると告げておられたのですが、この時には誰も理解していませんでした。しかし、今私たちは違います。ルカ福音書9章22節以下を私たちは理解できます。
9:22 次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」9:23 それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。9:24 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。9:25 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。9:26 わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。私たちは弟子達やマグダラのマリアを始めとする女性たちと違い、復活の出来事をあらかじめ知っています。洗礼を授けられた時、あるいはこれから授けられる時に知っています。主イエスが実際この地上を歩かれたこと、しばしば静かな所に退き祈られたこと、弟子たちとワインを飲みながら楽しい語らいの時を持たれたこと、多くの教えについて私たちは聖書の証言を通して知っています。わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。私たちは重荷を負い、苦しみ、悩み嘆く時、あるいは信頼を裏切られた時、この様な経験は長い人生の中に必ずやあることでしょう。その様な時にその全てを経験なさり知っていらっしゃる方、主イエス・キリストは、十字架を前にオリーブ山で祈られました。22:42 「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」。22:43 そのとき、御使が天からあらわれてイエスを力づけた。22:44 イエスは苦しみもだえて、ますます切に祈られた。そして、その汗が血のしたたりのように地に落ちた。聖書は主の苦しみをこの様に伝えています。
大祭司の中庭でのペトロの裏切りです。ペトロはそれを打ち消して、「わたしはあの人を知らない」と言った。ペトロは、「いや、そうではない」と言った。だが、ペトロは、「あなたの言うことは分からない」と言った。まだこう言い終わらないうちに、突然鶏が鳴いた。22:61 主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。
十字架の主イエスです。27:46 そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。27:50 イエスはもう一度大声で叫んで、ついに息をひきとられた。重荷を負い、苦しみ、悩み嘆かれ、裏切りを知る方、主イエスが私たちの友となって下さるのです。私たちを愛し、癒しそして望みを与えて下さるのです。
そして主はおっしゃいます。わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。この言葉を聞いた時、私たちは従うことの出来ないいろいろな理由を挙げることでしょう。例えば忙しさ。確かに忙しい日々を過ごされている方は多いでしょう。しかし、何に忙しいのか、あるいは何のために忙しいのか?これは一回立ち止まって考えてみる必要があります。そしてたとえどんなに忙しくても、祈る時間は必ずやあるはずです。
エフェソの信徒への手紙です。使徒言行録18章19章によればパウロはこの地に3年程滞在し、アジア州での中心的な教会に育てました。のちに書き送ったこの手紙には、パウロの他の手紙にある教会に起きた特定の問題に対する答えとか指導と言ったものは書かれておりません。手紙全体は、「教会を通して示されるキリストの愛によって私たちは神の永遠のご計画を知るのだ。」すなわち教会の目的、あるべき姿を告げています。現代においても「福音」、すなわち神の愛は教会を通して語られるのです。エフェソの信徒への手紙1章1節2節。使徒パウロの短い挨拶によって始まり、3節から14節には「神の恵みはキリストにおいて満ちあふれる」と言う小見出しが付けられています様に、キリストによって表された神様のご計画の素晴らしさが語られ賛美されます。
もちろん手紙は2000年前のパレルチナのクリスチャンに向けて書かれていますが、当時においても、また今においても、神様の愛が変わらないが故に、これは2017年の私たちに語られている言葉なのです。4節で、私たちクリスチャンは生まれる前から、いやそれどころか天地創造の前から、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。この様に語ります。6節7節では、 わたしたちはキリストの 血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。
ここで、「贖う」とはもともとお金を払って買い戻すと言う意味を持ちますので、キリストが私たちの罪の償いをその血、すなわち十字架における死によって行なってくださったと言う意味です。そしてこのことは私たちの努力とは全く関係ない一方的な神の豊かな恵みによるのです。
12節 以前からキリストに希望を置いていたわたしたち すなわちクリスチャンが 神の栄光をたたえるためです。と結論付けます。ここには、信仰を与えられた私たちの人生がいかに素晴らしいものかが要約されています。なぜならクリスチャンには常に希望があること。そしてどんな時にも 神の栄光をたたえる という生きる目的が明確なことです。「絶望」であるとか、「自分が生きる意味、生きている意味が分からない。」このような嘆きは私たちクリスチャンとは無縁なのです。
以上14節までは天地創造以前から今日まで、神様の愛の御業を褒め称える頌栄です。司会の日野長老に読んでいただいた15節以下の小見出しには「パウロの祈り」とあります。神への感謝と執り成しの祈りの内容を手紙で伝えることによって、教会とは何かを明確に言い表しているのです。
丁寧に見ていきましょう。15,16節エフェソの教会が今も愛の業で満たされていることを聞き、祈りの度に神様に感謝していることをまず伝えます。17節から19節には「くださるように。」と3つの願いが記されています。17節、聖霊の働きによって心の目を開け、父なる神のことを知る者としてください。18節、クリスチャンがどれほど大きな希望を与えられているのか、どれほど多くの素晴らしいものが与えられているのかを悟らせてください。私たちのいだく希望は最終的には終末においてかなえられることが約束されているのです。19節、私たちクリスチャンに働きかけて下さる神の力がどれほど偉大なものかを悟らせてください。パウロはエフェソ教会の人々が、そして山形六日町教会に集う私たちが、神の真理、すなわち変わることのない神の愛をさらに深く知る者にしてくださいと祈るのです。
20節は少し説明が必要でしょう。「神は、キリストを死者の中から復活させ、天においてご自分の右の座に着かせ、」とあります。これは先ほど振り返りましたイースター礼拝でお読みした聖書箇所、27:46 そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。27:50 イエスはもう一度大声で叫んで、ついに息をひきとられた。すなわち十字架の出来事に対する神様の回答が復活で有り、神の右の座に着かせられたことです。栄光を与えられたのです。
説教の後にご一緒に告白します、使徒信条では「三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。」この様に告白します。聖書に言う「天」あるいは「天の国」とか「神の国」と言うのは、特定の場所を指すのではなく、神様の完全な支配がなされることを意味しています。それが完全な意味でこの地上に現れるのはキリストが再び来られる終末の時まで待たねばなりません。しかし、その先駆けとして神の愛によってすべてが支配される場所、それが教会なのです。主イエスが共にいて下さることを最も強く感じるところ、それが教会なのです。もしも教会が主の愛に満たされていないとしたら、それは神様のご計画に逆らっていることになるのです。
これは22節から明らかです。1:22 神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。 教会の頭はキリストです。もしもキリスト以外のものが教会を支配するのであれば、それは神様のご計画ではありませんので、その様な教会は即刻解散すべきでありましょう。23節 1:23 教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。 教会の頭はキリストであり、連なる私たちはその体です。主イエスの言葉によれば、わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。となります。体は頭の指令のままに動くことが一番幸せなことです。体の各部分が勝手な動きをしたならばどうなるか想像してみて下さい。逆に頭は体の各部分の痛みを知ります。馬小屋で誕生された、主は私たちの痛みを共にしてくださる方だと申し上げました。その時、頭は体の各部分がお互いに助け合うことを求めます。 教会に集う者達が主にある兄弟姉妹と呼ばれるゆえんです。教会は主のお考えを聞くことから全てを始めます。具体的には礼拝です。み言葉に聞き、賛美し、祈り、捧げるのです。
この後持たれます教会総会の議案書は先週配布されていますから、既にご覧になっていらっしゃることと思いますが、いくつかの大切な課題を議していく必要があり、その中に長老選挙があります。私たち山形六日町教会は改革長老教会の伝統にある教会で、具体的には教会総会で選ばれた長老と、主によって遣わされた教師が組織する長老会が教会の政治を担います。従って適切な長老を選出することは総会に課せられた重要な任務であることを覚えて下さい。
さらに大切な課題として、これは日本の多くの教会に共通することですが、伝道の不振があります。この山形六日間町教会もかつては青年があふれ、大勢で礼拝が守られたと記録されていますが、現状には厳しいものがあります。私たちが先輩から受け継いだ素晴らしい信仰をどの様に次の世代に受け渡したらよいのか。この課題を大切にしたいと思います。 そして、心を合わせて祈り、希望を持って歩み出す130年目としたいと思いますし、そうなりましょう。年間主題として「感謝をもって歩みだそう」を提案する次第です。最後に、先ほど読んでいただいた詩編115編1節を再度お読みします。 115:1 わたしたちではなく、主よ わたしたちではなく あなたの御名こそ、栄え輝きますように あなたの慈しみとまことによって。 祈りましょう。