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山形六日町教会

2017年4月16日

聖書:イザヤ書35章1~4節 ヨハネによる福音書20章1~18節
イースター礼拝「もしも」波多野保夫牧師

主は復活なさいました。ハレルヤ! イースターの礼拝はこの叫びをもって始まります。先ほどご一緒に賛美しました328番は最初に高らかに叫びました。ハレルヤ、ハレルヤ、ハレルヤと。そして、最後に叫びました。ハレルヤ、ハレルヤ、ハレルヤと。ハレルヤは元来は「主を誉めたたえよ」とか「神を賛美します」と言った意味のヘブライ語でしたが、この当時、民衆はほとんど「万歳」と言った意味で用いていたようです。 最近、ショッピングモールなどで「イースターパーティーを楽しもう」などと言ったキャッチフレーズが用いられるようになってきました。事の良しあしを論じる前に、その本当の意味と恵みを知る私たち、主に従う者がしっかりとその素晴らしさを自覚したいと思います。実は先ほど境澤長老に読んでいただいた聖書箇所、イザヤ書とヨハネ福音書は、昨年のイースター礼拝でもほとんど同じ個所を、この時は日野長老に読んでいただきました。今朝はイザヤ書の告げますみ言葉を聞くことから始めますが、まず聖書の語る全体像、すなわち世界観を見ておきましょう。
旧約聖書の1ページ、創世記1章1節「初めに、神は天地を創造された。」で始まり、全ての創造の御業を終えられた後、1:31 神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。神が創られた全てのものは極めて良かったのです。新約聖書は480ページ ヨハネの黙示録22章20節21節の次の言葉で閉じられています。  22:20 以上すべてを証しする方が、言われる。「然り、わたしはすぐに来る。」アーメン、主イエスよ、来てください。22:21 主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように。やがて来る終末の時において、現在神の右におられる主イエスが再び地上に来られ、まるで罪と悪が全てを支配しているかの様にさえ思える私たちのこの世界を、平和と喜びに満ちた神の支配なさる世界に変えて下さる。すなわち神がすべてをご支配のもとに置かれると言う、神の国の到来への希望で終わっているのです。
ですから、人類の歴史はこの二つの時、天地創造と終末の時の間に全てがあり、そこには「絶えることのない神の愛に満ち溢れているのだ。」これがこの分厚い聖書が語ることの全てなのです。言い換えれば、この天地創造と終末との間に起こったこと、そしてこれから起こること。その全てが人の罪と神の赦しの出来事だと言って良いでしょう。神学の言葉でこれを神の救済史、救いの歴史と呼びます。
2000年前に起きたイースターの出来事と同じように、今ここ山形六日町教会に共に集ってイースターの礼拝を守っている私たちも、罪とは無縁ではないものの、神の愛の中に置かれているのです。そのような私たちにとって、それでは主の復活の出来事はどの様な意味を持っているのでしょうか? この問を考えるに際して、それではもしも主イエスが復活なさらなかったとしたら、どうなのだろうか? この様な設問をしてみました。本日の説教題を「もしも」とした次第です。
旧約聖書の世界では、神様はイスラエル民族だけに豊かな恵みを注がれました。これはまずイスラエルの人々が神の福音の中を歩む者となり、次に全世界の人にその福音が及ぶと言う、神様のご計画だったからです。ですから、現在私たちが旧約聖書を読む際には、登場するイスラエルの民を私たちに置き換えて読むことはほとんどの場合正しいのです。ただし、一点だけ違いがあります。それは、彼らが主イエス・キリストを知らなかったのに対して、私たちは知っていると言うことです。このことをわきまえるならば、旧約聖書に描かれている世界はまた、今日の私たちの世界と無縁ではなくなります。
順にみていくことにしましょう。旧約聖書は、天地創造の物語に続いて、アダムとエバが罪を犯したことを語ります。次に地上に満ちた罪を滅ぼすためのノアの洪水物語が続き、さらにバベルの塔の出来事もありました。罪を犯す人間、罪をいい加減になさらない神の怒りそして悔い改めた人間を赦す神。やがてイスラエル民族の父アブラハムが登場します。彼は神のご命令に従いはるか遠くのカナンへと移住します。その信仰のゆえに、神は「アブラハムの子孫が空の星、浜の砂の様に多くなる」と約束されたのです。新約聖書ヘブライ人への手紙11章は次の様に書き始めています。11:1 信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。11:2 昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。その信仰者の代表として、アブラハムのことを語っています。やがてエジプトに移住したイスラエルの人々は、時を経て、奴隷になってしまいます。民の苦しみの中からの祈りを神は聞かれ、モーセを指導者として立て、遠くカナンの地へと導かれました。それは40年に渡る荒野の旅でした。この旅はまた、不満をもらす民、罪を犯す民の物語なのです。ファラオの追手を逃れるや、「エジプトでは肉鍋が食べられたのにこの荒野では水も食料もない」と不満を漏らし、モーセの姿が見られなくなると、金の子牛の像を拝み始める始末です。そんな民を神はマナやうずらで養い、十戒を与えて真の神への忠誠と、民の守るべきモラルを教えられたのです。十戒を守ることで、真の平和が実現できるのです。これは現代の私たちにとっても真実です。しかし、民の頑なさ、罪深さは変わりませんでした。
紀元前1000年に、ダビデはイスラエル王国の王となりました。現在説教シリーズ「サムエルに聞く」においてサムエル記を読み進めています。私たちは神に愛されたダビデ、罪を犯すダビデ、悔い改めへと導かれるダビデ。彼の姿を通して、神の大いなる愛のご計画を見ています。そしてそれはまた私たちの人生において起きる様々な出来事への対応を教えてくれているのです。このダビデと息子ソロモン王の時代はいわばイスラエルの絶頂期でした。パレスチナは、巨大なエジプトとアッシリアであり、後にバビロンであり、さらにはペルシャ、そしてローマと言うそれぞれの時代に世界の覇者として君臨した列強の間にあって、翻弄され続けた歴史を持っています。現代においても、その地政学的な状況は変わらないのでしょう。先ほど読んでいただいたイザヤ書35章は紀元前700年代後半に現れた預言者イザヤの伝える神の言葉を記しています。出エジプトの際に経験した神の大いなる愛を思い出して、神のもろもろの約束に信頼を置くこと、すなわち信仰こそが唯一の最も確かな答であることを語り、教えるのです。この真理は今日の私たちにとっても全く同じです。
イザヤ書34章には「エドムの審判」との小見出しがあり、神に逆らうイスラエルの敵国エドムに下される神の審判を語っています。35章には「栄光の回復」との小見出しがありイスラエルの栄光の回復が語られています。35章1節以下です。35:1 荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ/砂漠よ、喜び、花を咲かせよ/野ばらの花を一面に咲かせよ。35:2 花を咲かせ/大いに喜んで、声をあげよ。砂漠はレバノンの栄光を与えられ/カルメルとシャロンの輝きに飾られる。人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る。遠く自分たちの先祖がはるか昔に経験した、出エジプトの出来事が語られます。主に導かれて荒野を40年間さまよった記憶が呼び起され神の栄光をたたえるのです。砂漠がレバノン杉の生い茂る森や、肥沃な耕地に変えられ、そこに主の栄光が表されるのです。その時、心おののく人、すなわち恐れが心を支配している人に向かって宣言されます。「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。」先ほど預言者イザヤが活躍したのは紀元前700年頃だったと申しました。私たちは今それから後にイスラエルのたどった歴史を知っています。
紀元前586年にエルサレム神殿がバビロニアによって破壊され、約50年間多くの人々がバビロンに連行され奴隷とされました。バビロン捕囚と呼ばれます。バビロニアに代わった覇者ペルシャによって解放され、エルサレムに戻った人々は神殿を再建しますが、それ以後もペルシャそしてローマの世界支配のもとに存在しました。バビロン捕囚のイスラエルの民を解放したペルシャの王、キュロスを救い主とまで考えましたが、それは誤りでした。キュロスはイスラエル民族の新しい支配者に過ぎなかったのです。その支配の方法が貢物だけ欠かさないのであれば、宗教を始め大幅な自治を認めること変わったに過ぎなかったのです。「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。」
このイザヤが伝えた神の言葉が実現するまで、実に700年の月日が必要でした。イエス・キリストの誕生です。クリスマスの讃美歌231番は「久しく待ちにし」と歌います。イスラエルの民は待ちに待っていたのです。その間、ズーット周辺にある大国に翻弄され続けたイスラエルですから、主イエスの力ある業を見、力ある言葉を聞いた人々が、ローマの支配から解放してくれる民族の救い主と思いこんだのも無理からぬところがあるのです。先週の日曜日、ロバに乗ってエルサレムに入場された時です。21:8 大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。21:9 そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」 大歓迎で迎えました。人々はあの預言者イザヤが伝えた神の言葉、「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。」この約束の言葉が実現する時が来たのだと思ったのです。しかし、期待したユダヤ民族の救い主があえなく逮捕され、裁判にかけられた時、先週の木曜日の晩です。人々の落胆は怒りに代わりました。ローマ総督ピラトによる裁きの場面です。27:23 ピラトは、「いったいどんな悪事を働いたというのか」と言ったが、群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び続けた。27:26 そこで、ピラトはバラバを釈放し、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。
木曜日の午前10時と夜7時から持たれました洗足の木曜日礼拝で次の様に申し上げました。「旧約聖書ヨブ記によれば、ヨブが神を恨み罵るように理不尽な苦難を与えた悪魔でしたが、彼の信仰に打ち勝つことは出来ませんでした。主イエスとの40日に及ぶ荒野での対決においても悪魔は敗北しました。その主イエスをついに十字架の死へと追いやった悪魔です。祭司長や長老たちを権勢欲に誘い、ピラトの真理を求める心を弱くし、弟子たちに裏切りの心を起こさせ、群衆を扇動した。悪魔の全ての努力が報われたのです。イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。のであります。
しかし、私たちは知っています。悪魔が美酒に浸り喜びの内にあったのはたった3日だけだったことを。主の死の時に全地は暗くなりましたがそれはさらなる光を際立たせるためであったことを。そしてすべては勝利の日のための準備に過ぎなかったことを。」
先ほど境澤長老にヨハネ福音書20章1節以下の長い箇所を読んでいただきました。主イエスの復活の出来事を静かにしかもはっきりと伝えるメッセージをご一緒に聞きたいと思ったからです。十字架における死が大勢の注目を集め騒然とした中での出来事であったのに比べ、主の復活は実に物静かな場面であることに驚かされます。日曜日の早朝、まだ暗いうちに、人気の全くない墓場で、しかも罪の女と呼ばれたマグダラのマリアが復活の主にお会いしたのです。20:13 天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」20:14 こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。20:15 イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」
主は木曜日に過ぎ越しの食事を弟子たちと共にされました。弟子たちの足を洗い手拭いで拭われました。弟子たちと賛美の歌を歌ってからオリーブ山へと出て行かれました。その日の夜、捕らえられて最高法院での裁判、続いてポンテオピラトの裁判、有罪判決、十字架を背負わされてゴルゴダの丘へ、そして十字架へ。昼の十二時に、全地は暗くなり三時に主は大声で叫ばれました。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。
日が暮れると土曜日、安息日が始まれば何もできません。急いで遺体に香料を添えて亜麻布で包み墓に収めたのでありました。マリアの目にはすべてが悪夢の様に流れていったのです。愛する方のために出来ることは何もありませんでした。ただひたすら、「安息日が終わったら墓へ行って丁寧に葬りたい。」この思いで涙の内に安息日を過ごしたのです。20:15 イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」 ガリラヤから慕い続けてきた彼女は聞きなれた主の声に全く気付きません。彼女はまったく見当違いの答えを返します。マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」この時のマグダラのマリアには、最愛の方、主イエスの突然の死と言う現実が全く理解できていなかったのでしょう。彼女の答えにあるのは純粋に愛する主イエスへの思いだけです。主はそんな彼女の名を呼ばれたのです。「マリア」と。この呼びかけは彼女にとってすべてを理解するに十分でした。深い深い悲しみは、自分の名を呼んでくださったことによって、最高の喜びとなったのです。「主は生きておられる!」
私たちの人生には、それこそ様々なことが起こります。思い通りに運ぶこともあれば、想定外の事。喜び楽しみがある反面、悲しみや苦しみも。私たちはそれぞれの場面で祈ります。祈りには、感謝、謝罪、願いの言葉が賛美と共にあります。そして、人生の最も絶望的な状況にあってなお、主は真実な方でありわたしたちを愛し呼びかけてくださる。これは旧約聖書が語る、神に選ばれたイスラエルの民にとって、また新約聖書が語る全世界の全ての民にとっても真実なのです。
私たちは日々の生活において、様々に主の愛を感じます。例えばこの様に信仰の仲間と共に礼拝に集うことが出来る。招かれている、これは素晴らしいことです。しかし残念なことに日本の人口のたった1%ほどにすぎません。反対にすべての人に平等にかつ確実な神の御業、それは死です。それがいつなのかは神様のお決めになることですが、全員に平等です。しかしながら、聖書の語る世界は死が終わりではないのです。
使徒パウロはコリントの信徒への手紙Ⅰ15章で次の様に述べます。お聞きください。 15:12 キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。15:13 死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。15:14 そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。15:20 しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。15:21 死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。 私たちキリストに従う者には永遠の命が約束されている。そのことの決定的な証拠が主イエス・キリストの十字架と復活の出来事なのです。実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。
本日の説教題「もしも」に則して言えば、「もしも、主の十字架と復活の出来事がなかったならば」もはや主を信頼することは空しいこととなります。なぜなら復活こそが主イエスが神の独り子であることを私たちに明確に語るからです。復活がなければ聖書はウソを伝える書となるからです。この約束、永遠の命の約束はキリスト者を強いものにします。歴史上のクリスチャンがそうでした。なぜなら復活のキリストと共に生きる時私たちにはあらゆるものを恐れる必要がないからです。希望を失うことがないからです。イースターの時が私たちクリスチャンにとって大きな喜びの時であるのはこの理由によるのです。主の復活ハレルヤと讃美歌333番を大きな声で賛美しましょう。祈ります。