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山形六日町教会

2017年4月13日

聖書:ヨブ記1章6~12節 マタイによる福音書26章29~30節
洗足の木曜日礼拝「主の晩餐」波多野保夫牧師

洗足の木曜日礼拝をご一緒に守っていきたいと思います。例年この礼拝では今週の日曜日に始まりました、受難週の出来事をたどることから始めています。主イエスの歩まれた十字架への道をたどりたいと思うからです。マタイによる福音書を中心にして読んで行きます。
今年は4月9日に当たりました受難週礼拝の日は、棕櫚の聖日とも呼ばれます。人々が木の枝を道に敷き、ホサナ、ホサナと叫んで主のエルサレム入場を大歓迎したのです。21:7 ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。21:8 大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。21:9 そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」21:10 イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ。
翌月曜日、21:12 それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。21:13 そして言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしている。」21:14 境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされた。21:15 他方、祭司長たちや、律法学者たちは、イエスがなさった不思議な業を見、境内で子供たちまで叫んで、「ダビデの子にホサナ」と言うのを聞いて腹を立て、21:16 イエスに言った。「子供たちが何と言っているか、聞こえるか。」イエスは言われた。「聞こえる。あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか。」
火曜日 神殿の境内で祭司長や民の長老たちと、ご自分が何の権威で語られるのかを始め多くの議論をなさり、慈愛に欠ける彼らを激しく非難されたのです。10人のおとめのたとえ、タラントンのたとえ、などを用いて教えられたのもこの日の出来事です。彼らは大祭司の家に集まりイエスを捕え、殺そうと相談しました。
水曜日 ベタニアで香油を注がれました。26章6節以下です。26:6 さて、イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家におられたとき、26:7 一人の女が、極めて高価な香油の入った石膏の壺を持って近寄り、食事の席に着いておられるイエスの頭に香油を注ぎかけた。26:8 弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「なぜ、こんな無駄遣いをするのか。26:9 高く売って、貧しい人々に施すことができたのに。」26:10 イエスはこれを知って言われた。「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。26:11 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。26:12 この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。26:13 はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」同じころ、12弟子の一人イスカリオテのユダは祭司長たちの所に行き銀貨30枚でイエスを引き渡す約束をしました。
そして、木曜日。弟子たちと共に過ぎ越しの食事をとられました。過ぎ越しの祭りは出エジプトの出来事を思い起し、神様の恵みと導きに感謝するイスラエル民族の大切な記念の時であり、エルサレムへの巡礼者が250万人に達したと言う古代の記録も残っています。この食事では子羊を屠って食べましたがその血は家の入口の柱と鴨居に塗られました。神がイスラエル民族を導かれた出エジプトの出来事が強調されるのです。後に使徒パウロが「キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです。」(Ⅰコリ5:7)と言っていることを付け加えておきましょう。この過ぎ越しの食事がいわゆる最後の晩餐です。その席上で主イエスはご自分の記念としての聖餐を定め、また弟子たちの足を水で洗い手拭いで拭われたのでした。主の聖餐と洗足の出来事は同じ最後の晩餐の席で起きたのです。食事の後、30一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。のであります。日が沈み夜になっていましたから、ユダヤの暦では既に金曜日が始まっています。26章36節以下です。26:36 それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。26:37 ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。26:38 そして、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」26:39 少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」26:40 それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、ペトロに言われた。「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。26:41 誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」主イエスは3度離れたところで祈られましたが、その度に弟子たちの所に戻ってみると彼らは眠ってしまっていたのです。そしてそこに現れたイスカリオテのユダが接吻するのを合図に主は捕らえられました。最高法院での裁判。その中庭でのペトロの裏切り。ローマ総督ポンテオ・ピラトへの引き渡しと裁判。総督は祭りの際に一人の犯罪人に恩赦を与えることになっていました。イエスの無実を確信した彼はイエスを釈放しようとしますが、祭司長たちや長老たちは、バラバを釈放して、イエスを死刑に処してもらうようにと群衆を説得しました。人々は叫びました。「バラバを釈放しイエスを十字架につけろ」と。27:23 ピラトは、「いったいどんな悪事を働いたというのか」と言ったが、群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び続けた。27:26 そこで、ピラトはバラバを釈放し、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。
この後主は多くの者から侮辱を受けるのです。27:27 それから、総督の兵士たちは、イエスを総督官邸に連れて行き、部隊の全員をイエスの周りに集めた。27:28 そして、イエスの着ている物をはぎ取り、赤い外套を着せ、27:29 茨で冠を編んで頭に載せ、また、右手に葦の棒を持たせて、その前にひざまずき、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、侮辱した。27:30 また、唾を吐きかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたき続けた。27:31 このようにイエスを侮辱したあげく、外套を脱がせて元の服を着せ、十字架につけるために引いて行った。27:33 そして、ゴルゴタという所、すなわち「されこうべの場所」に着くと、27:34 苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった。27:35 彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、27:36 そこに座って見張りをしていた。ここまで極力注釈をつけずに、淡々と聖書の語るところを追ってきました。
登場人物が大勢出てきました。あなたは、そして私はその誰なのでしょうか? 主のエルサレム入場をホサナ・ホサナと大歓迎した群衆。ホサナは元来「主よ、祝って下さい。」と言った意味でしたがほとんど万歳と同じ意味で用いられていました。この群衆の中にキット私たちもいたことでしょう。教会で金儲け精を出して、「強盗の巣にしている」と主に非難されることは無いでしょうが、高価なナルドの香油を献げる者であるかは問われるでしょう。イエスの弟子たち。ガリラヤの地から主イエスに従ってやってきました。その中から選ばれた12人は使徒と呼ばれ、特別の訓練を受けました。私たちは人口の1%にも満たない主によって選ばれた者です。週ごとの礼拝において主の恵みをいただき、み言葉によって養われています。キリストの弟子と呼ぶにふさわしいものです。彼らは、ゲッセマネで主が苦しみ悶えて祈った時、睡魔に負けて眠り込んでしまいました。一番弟子と呼ばれたペトロ、捕らえられた主イエスが心配で、大祭司の屋敷に様子をうかがいに行きました。26:69 ペトロは外にいて中庭に座っていた。そこへ一人の女中が近寄って来て、「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」と言った。26:70 ペトロは皆の前でそれを打ち消して、「何のことを言っているのか、わたしには分からない」と言った。ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が鳴いた。26:75 ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。クリスチャンですかと聞かれた時、「はい」と喜びと自信を持って答えることの少なかった自分を覚えます。祭司長や長老たち。ユダヤの宗教指導者です。ローマ総督ポンテオ・ピラト。主イエスが無罪であることを知りますが、民衆の反乱を恐れ真理を曲げてしまいます。再び群衆です。祭司長や長老たち権力者の圧力によって、「バラバを」ゆるしイエスを「十字架につけろ」と叫びました。第二次世界大戦下においてヒトラーを支持した多くのドイツ教会が思い起こされます。ほかにも登場人物がいます。イスカリオテのユダ。大祭司、百人隊長他の兵士たち。さらにゴルゴダの丘に建てられた十字架上の主を見つめる者たちがおりました。27:55 またそこでは、大勢の婦人たちが遠くから見守っていた。この婦人たちは、ガリラヤからイエスに従って来て世話をしていた人々である。
先ほど讃美歌306番「あなたもそこにいたのか」の1節から3節をご一緒に賛美しました。いまから私がその歌詞をもう一度お読みします。お配りしたくぎを軽く手に押し当てながらお聞きください。
1. あなたもそこにいたのか、 主が十字架についたとき。ああ、いま思いだすと 深い深い罪つみにわたしはふるえてくる。
2. あなたもそこにいたのか 主がくぎでうたれたとき。ああ、いま思いだすと 深い深い罪にわたしはふるえてくる。
3. あなたもそこにいたのか、主が槍でさされたとき。ああ、いま思いだすと 深い深い罪にわたしはふるえてくる。
わたしは、そしてあなたは、その時どこにいたのでしょうか? そして今わたしは、あなたは、どこにいるのでしょうか?

さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。27:46 三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。この時点において、悪魔は完全に勝利しました。あのヨブ記において悪魔はヨブを神から離れさせることは出来ませんでした。主イエスがバプテスマのヨハネから洗礼を受けられた後、荒野での40日間の戦いにおいても悪魔は主に敗れました。4:10 すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」4:11 そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。聖書はこの様に証言しています。その主イエスを十字架の死に追いやった。祭司長や長老たちを権勢欲に誘い、ピラトの真理を求める心を弱くし、弟子たちに裏切りの心を起こさせ、群衆を扇動した。悪魔の全ての努力が報われたのです。イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。のであります。しかし、私たちは知っています。悪魔が美酒に浸り喜びの内にあったのはたった3日だけだったことを。主の死の時に全地は暗くなりましたがそれはさらなる光を際立たせるためであったことを。そしてすべては勝利の日のための準備に過ぎなかったことを。

数か月前、「沈黙-サイレンス」と言う映画が山形で上映されました。ご覧になられた方もおいでかと思います。私は、予告編を見て行きたいと思いましたが、結局行くことはありませんでした。もう半世紀前になりますが、高校生の時に遠藤周作氏の原作を読みました。その重さを知るだけにどうしても足が向かなかったのです。これは、江戸時代初期のキリシタン弾圧と殉教の姿を描いた小説で、命がけで日本にやって来たポルトガルの宣教師ロドリゴは信頼した日本人通訳の裏切りで逮捕され、拷問によって「転び」すなわち踏み絵を踏んで、信仰を捨てることを強く求められます。ロドリゴは自分の拷問には祈ることで耐えますが、拷問に苦しむ多くの信者たちは、ロドリゴが「転ばなければ」けして赦されないことを知らされます。自分の信仰を貫き自分の救いを大切にするのか、信者たちを拷問から救うために踏み絵を踏むのか。神様が祈りに答えて下さらないままに究極の選択が迫られるのです。ロドリゴは葛藤の中で踏み絵を踏むことになります。その一節をお読みします。お聞きください。「司祭は足をあげた。足に鈍い重い痛みを感じた。それは形だけのことではなかった。自分は今、自分の生涯の中で最も美しいと思ってきたもの、最も聖らかと信じたもの、最も人間の理想と夢にみたされたものを踏む。この足の痛み。その時、踏むがいいと銅版のあの人は司祭にむかって言った。踏むがいい。おまえの足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生れ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ。 こうして司祭が踏絵に足をかげた時、朝が来た。鶏が遠くで鳴いた。」
もちろんこれは小説家の書いた文章です。しかし、ロドリゴの祈りに対する答え、「私はお前たちに踏まれるため、この世に生れ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ。」この答えには説得力があります。ロドリゴが踏み絵を踏んだ足、その足は主イエスが洗いそして拭って下さった足なのです。もちろん私たちの足も主は洗い拭い、清いものとしてくださっています。清くされた私たちだからこそ、主の聖餐に与かり、主の血と肉とをいただくのです。
先ほど今日お読みしたマタイ福音書の登場人物の中で誰が自分に似ているのかを考えました。しかし、一人登場人物が抜けていました。主イエス・キリストです。
ローマの信徒への手紙 8:29神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。
ヨハネの手紙一 3:2愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。
足を洗って清くされた私たちはキリストの血と肉をいただくことで、キリストに似た者へと変えられていく。じつにこの私がなのです。そしてその完成は再び主が来られる終末の時に約束されているのです。これが私たちの希望です。三日目の勝利を知る私たちはまた、終末の勝利をも知るのです。美酒に酔いしれる悪魔をしり目に、イースターを大いなる喜びの内に迎えたいと思います。祈りましょう。