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山形六日町教会

2017年4月9日

聖書:サムエル記下11章26~12章25節 マルコによる福音書15章25~37節
説教シリーズ サムエルに聞く-11「それはあなただ」波多野保夫牧師

受難週を迎えました。今週の金曜日がご受難の日にあたります。今年は4月14日金曜日になりますが、言い伝えからその日は13日だったと言われ、13日の金曜日は縁起の悪い日と言われたりします。私たち、主の大いなる愛の中に置かれているものにとって、縁起と言うのはまったく関係のないことでありますし、英語圏ではGood Friday と呼ばれます。素晴らしい金曜日とでも訳すのでしょうか。それは現在私たちが2000年前の出来事を全て知っているからです。主イエス・キリストの十字架の出来事。それが何よりも私たちが神によって愛されていることの証拠だと知っているから13日の金曜日は素晴らしい日なのです。
聖書の告げるところによれば、今日は主イエスがロバの背にのってエルサレムに入場した日に当たります。21:6 弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、21:7 ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。21:8 大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。21:9 そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」21:10 イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ。21:11 そこで群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言った。マタイ福音書21章です。私たちはたった5日後に同じ群衆が叫んだ言葉を知っているのです。人々は一斉に、「その男を殺せ。バラバを釈放しろ」と叫んだ。 のであります。
受難日の前日、その週の木曜日に主イエスは、弟子たちと共に食事をなさいました。最後の晩餐と呼ばれます。ヨハネ福音書13章によれば、主はその晩餐の席で立ち上がり上着を脱いで手拭いを腰にまとい、弟子たちの足を洗いそして拭かれたのです。この一連の出来事を記念して、古くから洗足の木曜日礼拝において聖餐式が守られてきました。今年から山形六日町教会でも4月13日木曜日、午前10時と午後7時から2回の礼拝において聖餐の時を持ちます。私たちの罪を一身に負う十字架を前にしてもなお、主が私たちを愛し続けて下さっていた、そして今日も私たちの足を洗い拭って下さっている。そのことを強く感じていただきたいと思います。多くの方の出席をお待ちいたします。

さて本日与えられた聖書箇所、サムエル記下11章26節以下は先週聞きました11章1節以下の物語の続きになりますので、復習から始めましょう。年が改まってからもダビデ王は戦いに出ることなく王宮に留まり休暇を楽しいでいました。そんなある日、午睡のあと屋上から一人の大変美しい女が水浴びをしているのが目に留まりました。ヘト人ウリヤの妻バテシバでした。彼はバテシバを王宮へと招き入れ床を共にします。姦淫の罪を犯しました。
さらに暫くたってからダビデのもとにもたらされたのは「子を宿しました」との知らせです。律法が法律であったイスラエルでは姦淫は死罪に当たります。王といえども例外ではありません。水浴びを盗み見ると言う小さなことから始まった悪魔の誘惑でした。悪魔は知恵を授けます。「夫ウリヤの子供と言うことにすれば良いではないですか。」これはダビデには名案に思え、早速ウリヤを戦地から呼び戻して、食事を共にし酔わせたのですが彼は家に戻ろうとしません。自分だけが家でくつろぐことは出来ないと頑なに家に帰ることを受け入れないのです。困り果てたダビデに再び悪魔はささやきます。「彼が名誉の戦死を遂げれば全てが上手くいくのではないですか。」翌朝ダビデはウリヤに彼の上官ヨアブにあてた命令書を持たせて前線へと帰らせました。そこには「ウリヤを激しい戦いの最前線に出し、彼を残して退却し、戦死させよ」と書かれていた のです。11章16節 16 町の様子を見張っていたヨアブは、強力な戦士がいると判断した辺りにウリヤを配置した。17 町の者たちは出撃してヨアブの軍と戦い、ダビデの家臣と兵士から戦死者が出た。ヘト人ウリヤも死んだ。私たちは、最初は水浴びの姿を盗み見ると言う、チョットした悪魔の誘惑から始まった罪は、次の罪を呼び拡大していく様を見てきました。
ダビデは十戒にうちの4つの戒めを破りましたす。第6戒 殺してはならない。第7戒 姦淫してはならない。第9戒 偽証してはならない。第10戒 隣人の妻を欲してはならない。ここまでの指摘であれば、きっと皆さんは3000年前の王様のしたこと、他人事として聞き流すことが出来るでしょう。しかし、もう一つ指摘される彼の犯した罪。それは第1戒「あなたには、私をおいてほかに神があってはならない。」この第1戒を破っているのです。ダビデはこの時、明らかに神を神とするのではなく、自分の欲望であり、破れを取り繕うための悪魔のささやきに従ったのです。この結果は「必ずや私たち自身と私たちが愛する者たちを蝕んでいく」この様に申し上げました。11章23節以下です。 11:23 使者はダビデに言った。「敵は我々より優勢で、野戦を挑んで来ました。我々が城門の入り口まで押し返すと、11:24 射手が城壁の上から僕らに矢を射かけ、王の家臣からも死んだ者が出、王の僕ヘト人ウリヤも死にました。」 そして、11:27 喪が明けると、ダビデは人をやって彼女を王宮に引き取り、妻にした。彼女は男の子を生んだ。ダビデ王は大きな喜びに包まれたことでしょう。自分が犯した罪は誰にも知られず、これまでの不安な日々は終わったのです。さらにバテシバをものにすると言う野望まで達成できたのです。悪魔の作戦通りに事は運びました。
しかし、11章27節の後半です。ダビデのしたことは主の御心に適わなかった。 私たちといつも共にいて下さる方はすべてお見通しです。この方への隠し事はまったく無意味なのです。12章1節以下の小見出しにナタンの叱責とあります。預言者ナタンはダビデ王の友人であり良き理解者でありました。10節までお読みします。お聞きください。12:1 主はナタンをダビデのもとに遣わされた。ナタンは来て、次のように語った。「二人の男がある町にいた。一人は豊かで、一人は貧しかった。12:2 豊かな男は非常に多くの羊や牛を持っていた。12:3 貧しい男は自分で買った一匹の雌の小羊のほかに/何一つ持っていなかった。彼はその小羊を養い/小羊は彼のもとで育ち、息子たちと一緒にいて/彼の皿から食べ、彼の椀から飲み/彼のふところで眠り、彼にとっては娘のようだった。12:4 ある日、豊かな男に一人の客があった。彼は訪れて来た旅人をもてなすのに/自分の羊や牛を惜しみ/貧しい男の小羊を取り上げて/自分の客に振る舞った。」12:5 ダビデはその男に激怒し、ナタンに言った。「主は生きておられる。そんなことをした男は死罪だ。12:6 小羊の償いに四倍の価を払うべきだ。そんな無慈悲なことをしたのだから。」12:7 ナタンはダビデに向かって言った。「その男はあなただ。イスラエルの神、主はこう言われる。『あなたに油を注いでイスラエルの王としたのはわたしである。わたしがあなたをサウルの手から救い出し、12:8 あなたの主君であった者の家をあなたに与え、その妻たちをあなたのふところに置き、イスラエルとユダの家をあなたに与えたのだ。不足なら、何であれ加えたであろう。12:9 なぜ主の言葉を侮り、わたしの意に背くことをしたのか。あなたはヘト人ウリヤを剣にかけ、その妻を奪って自分の妻とした。ウリヤをアンモン人の剣で殺したのはあなただ。12:10 それゆえ、剣はとこしえにあなたの家から去らないであろう。あなたがわたしを侮り、ヘト人ウリヤの妻を奪って自分の妻としたからだ。』 12:5 ダビデはその男に激怒し、ナタンに言った。「主は生きておられる。そんなことをした男は死罪だ。12:6 小羊の償いに四倍の価を払うべきだ。そんな無慈悲なことをしたのだから。」出エジプト記21章37節によれば羊1匹に対する代償は4匹の羊とされていますからダビデ王の裁きは正しいのです。彼は律法の定めに忠実でした。
ここで、主イエスの次の様な言葉を思い出すのは私だけでしょうか?あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。(ルカ6:41) ダビデと同じように他人の小さな欠点や慈悲に欠ける行いを見つけることにおいて、私は名人と言っても良いでしょう。しかし自分の欠けに対してはまったく無頓着なのです。本日の説教題を「それはあなただ」としました。
詩編108編8節は次の様に歌っています。103:8 主はあわれみに富み、めぐみふかく、怒ること遅く、いつくしみ豊かでいらせられる。「怒ることに遅く」とあります。背き続ける私たちに我慢に我慢を重ね愛し続けて下さる方だと歌います。もしそうでなかったならば、私たちは今この様に恵み豊かな礼拝に集うことは出来なかったでありましょう。一時は平安に満ちあふれるとも、やがて不安にさいなまれる日々を迎えることでしょう。神はいつくしみ豊かな方なのです。 しかし、罪をいい加減に放置なさる方では決してありません。ダビデ王の友人であり良き理解者である預言者ナタンは神のみこころ、すなわち裁きの言葉をさらに続けます。12:12 あなたは隠れて行ったが、わたしはこれを全イスラエルの前で、太陽の下で行う。先ほどマルコ福音書の告げます主の十字架の場面を読んでいただきました。 15:25 イエスを十字架につけたのは、午前九時であった。15:26 罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。15:27 また、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右にもう一人は左に、十字架につけた。 十字架刑が太陽の下で行われたことを覚えておきたいと思います。
旧約聖書サムエル記下12章13節に戻ります。12:13 ダビデはナタンに言った。「わたしは主に罪を犯した。」ナタンはダビデに言った。「その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる。12:14 しかし、このようなことをして主を甚だしく軽んじたのだから、生まれてくるあなたの子は必ず死ぬ。」12:15 ナタンは自分の家に帰って行った。ダビデはこの時、全てをご存じになっている全能の神に思い至り、自分の罪深さを深く悔いたのです。その悔改めが真実なものであったことを私たちは知ります。口先だけでなかったことを私たちは知ります。なぜならば全てをご存じの神がナタンを通じて告げられたからです。「主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる。」しかし、聖なる神は罪をそのまま放置なさることはありません。ナタンは告げます。このようなことをして主を甚だしく軽んじたのだから、生まれてくるあなたの子は必ず死ぬ。
 愛するバテシバとの間に生まれた子供、最愛の子供が死ぬと言うのです。いかに愛していたかを聖書は告げます。主はウリヤの妻が産んだダビデの子を打たれ、その子は弱っていった。12:16 ダビデはその子のために神に願い求め、断食した。彼は引きこもり、地面に横たわって夜を過ごした。12:17 王家の長老たちはその傍らに立って、王を地面から起き上がらせようとしたが、ダビデはそれを望まず、彼らと共に食事をとろうともしなかった。12:18 七日目にその子は死んだ。
使徒パウロは告げています。罪が支払う報酬は死です。(ロマ6:23)ダビデ王が犯した罪は、悔い改めて神に立ち返ることで赦されました。彼は死をまぬかれたのです。しかし、彼に代わって最愛の息子は死に定められたのです。ここでヒューマニズムにあふれた現代人である私たちは疑問をいだき心の中でつぶやくのではないでしょうか? 「ダビデ王の息子は自分が罪を犯したのではない。親の罪のために死ぬのだとしたら理不尽だ。神様は残酷な方だ。」なかなか鋭い指摘です。神様はダビデだけを苦しめれば良いではないか。お灸をすえて犯した罪を悟らせれば良いではないか。神様のなさることはおかしい。神様を裁判にかけて有罪判決を出すのです。この時、私は自分の目の中の丸太、すなわち罪を見ることはまったくありません。私たちは、ここでなぜ神様がこの子供の命をとられたのか、さらにこの子供がその先どうなったのか、それを知ることは出来ません。 しかし、私たちには知っていることがあります。マルコによる福音書15章33節以下です。15:33 昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。15:34 三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。イエスは大声を出して息を引き取られた。神は最愛の独り子、主イエス・キリストを私たちの罪のために十字架に架けられました。何ら罪を犯されなかった方、徹底的に神に対して従順だった方はご自分がなぜ十字架の死を遂げなければならないのか、その理不尽さに苦しまれたのです。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。この悲痛な主イエスの叫びを私たちは知っているのです。後に使徒パウロは十字架のイエスについて証言しています。へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。(フィリピ書 2:6-8)
ダビデの犯した罪、第6戒 殺してはならない。第7戒 姦淫してはならない。第9戒 偽証してはならない。第10戒 隣人の妻を欲してはならない。  ここまでならば皆さんとは無縁でしょう。しかし、第1戒「あなたには、私をおいてほかに神があってはならない。」もちろん、私たちは他宗教の神を拝むことはありません。しかし、神ならぬものに支配されること。他人の顔色であったり、世間の噂、出世、お金、見えや世間体などなど・・。私たちの心を支配しようとするものは多いのです。神ならぬものを神とする、これは立派な律法違反であり罪です。聖なる神は決していい加減にはなさいません。先ほど使徒パウロの言葉を引用しました。罪が支払う報酬は死です。ローマの信徒への手紙6章23節です。
ダビデ王の罪に対し支払う報酬として、神はその息子の死を求められました。しかし、私たちの罪に対して神が求められたのは、なんとご自分の独り子の死だったのです。ここには大いなる逆転があることを見逃してはなりません。神は罪の責任を独り子に転嫁されたこと。そして、その素晴らしい出来事は私たちの生まれる前に既になされていること。罪を犯す前にその清算が済んでいると言うのです。そして、私たちに神が求められる唯一のこと、それはみ子主イエス・キリストに従って、素晴らしい人生を送ると言う栄光に満ちた歩みだけなのです。具体的には洗礼を受け教会に連なるだけです。これは信仰義認、信仰によって神様はわたしたちを、正しいものと見なして下さると言うことです。もちろん主の十字架の出来事によって、罪を贖っていただいた私たちが、主の喜ばれる人生を歩むことは当然です。聖化、聖なる者に変えられると呼ばれます。
一つだけ蛇足ですが付け加えておきましょう。ダビデはその罪の故に愛する息子を失いました。聖書の語るところです。しかし、お子さんを亡くされた方、それが自分の罪の故だと誤解してはいけません。なぜならそれはキリストの十字架の出来事の後でのことだからです。もし、あなたの罪の故だと言い張るのであれば、それはキリストの犠牲を軽いもの、価値の低いものと言うに等しいからです。
この受難週の一週間、私たちは十字架の出来事の素晴らしさと自身の罪深さを思い過すことでしょう。「それはあなただ」との声を聞くのです。大切な時間です。しかし、洗礼を受けた者は皆救われているのです。まだの方はすばらしい人生へと招かれているのです。このことを忘れないでください。そして私たちに絶対的な希望を与えてくれる時、それは主の復活の日であり、やがてやってくる主の再臨の日なのです。洗足の木曜日礼拝はその希望をさらに大きくしてくれる時でもあります。祈りましょう。