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山形六日町教会

2017年4月2日

聖書:サムエル記下11章1~27節 ルカによる福音書11章2~4節
説教シリーズ サムエルに聞く-10「誘惑」波多野保夫牧師

4月を迎え、本日から新しい年度2017年度に入りました。お正月とはまた別の緊張感があるのではないでしょうか。入学で進級のあり季節でありますし、新入社員の何かぎこちないスーツ姿も目に付く季節です。勤務が変わった方もおいでかも知れません。昨年スタートしました千歳認定こども園も2年目の新しい歩みが始まります。そして何よりも長く厳しかった冬もさり、桜前線の待ち遠しい季節。農作業にお忙しい頃かと思います。山形六日町教会もこの秋に創立130周年を迎えようとしていますが、週報の表紙はまだ変わっていません。教会の主題と主題聖句は4月23日の教会総会において皆さんと共に決め、そして励んで参りたいと思います。

さて、説教シリーズサムエルに聞くは10回目となりました。ダビデの生涯を通して、私たちの人生の様々な場面において登場する手ごわい敵にどの様に対処するのか、聖書から聞いて参りました。先ほどサムエル記下11章5節までを読んでいただきました。ダビデ王が姦淫の罪を犯した場面です。しかし11章はこれだけで終わっていません。後ほどご一緒に読み進めますが、ダビデ王はこの事実を隠すためにバテシバの夫であり、ダビデの忠実な部下であったウリヤを死に追いやります。これほどの罪人があろうかと思われることをダビデは行うのですが、聖書は不都合に思えることでも、その事実を隠すことなく語るのです。そもそも旧新約聖書に登場する人物は一人の例外を除いて、弱さや汚れあるいは破れをさらけだしています。一人の例外、それが真の人であり真の神であった方、主イエス・キリストです。あの使徒パウロですらそうです。ファリサイ派に属していた彼は、回心する以前はキリスト教徒を捕えて牢に送ることこそ神に忠実なことだと信じていました。自分を罪人の頭と呼んでいるのは謙遜ではありません。パウロは自分の罪深さを自覚していたのです。さらに使徒言行録20章7節以下にはこの様な記事があります。7 週の初めの日、わたしたちがパンを裂くために集まっていると、パウロは翌日出発する予定で人々に話をしたが、その話は夜中まで続いた。8 わたしたちが集まっていた階上の部屋には、たくさんのともし火がついていた。9 エウティコという青年が、窓に腰を掛けていたが、パウロの話が長々と続いたので、ひどく眠気を催し、眠りこけて三階から下に落ちてしまった。起こしてみると、もう死んでいた。 このあと青年は生き返るのですが、長い説教が罪作りなことを自覚させられる話です。
11章1節 年が改まりとあります。ユダヤでは太陰暦が用いられ、新年は9月から10月頃になります。乾燥した熱い夏が過ぎた夕暮れのころ。当時戦は一種の産業の意味を持っていたと以前申しましたが、兵士たちを送り出した後も、ダビデ一人が仕事をさぼって休暇を楽しんでいました。私たちは忙しい忙しいと嘆きますが、なにもやることがないと言うのも精神的にも肉体的にも良くないようです。昼寝から目覚めた彼は王宮の屋上を散歩していました。その時、一人の女性が身を清めるために水浴びしている姿が目に留まったのです。その裸で水浴びする姿がチラット見えてしまったのでしょうが、「女は大層美しかった。」と書かれていますからダビデはしばらくの間、盗み見を続けたのです。この小さな出来事が次第に波紋を広げていきます。4節4 ダビデは使いの者をやって彼女を召し入れ、彼女が彼のもとに来ると、床を共にした。5節 「子を宿しました」との知らせにダビデ王はうろたえたに違いありません。そんな時に悪魔はささやくのです。悪魔のささやきはいつもとても良い考えの様に聞こえます。おいしそうな木の実を前にしたアダムに蛇はささやきました。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」
皆さんは悪魔のささやきを聞いたことはありませんか?最初はちいさなことから始まった罪は罪を呼び、必ずや私たち自身と私たちが愛する者たちを蝕んでいく、そのもの語りが続きます。ダビデへのささやき、それはバテシバが宿した子はウリヤの子だとすることでした。ウリヤはダビデの親衛隊を務める忠実な部下でしたが、彼は戦地からウリヤを呼び戻します。7節以下です。7 ウリヤが来ると、ダビデはヨアブの安否、兵士の安否を問い、また戦況について尋ねた。8 それからダビデはウリヤに言った。「家に帰って足を洗うがよい。」ウリヤが王宮を退出すると、王の贈り物が後に続いた。9 しかしウリヤは王宮の入り口で主君の家臣と共に眠り、家に帰らなかった。10 ウリヤが自分の家に帰らなかったと知らされたダビデは、ウリヤに尋ねた。「遠征から帰って来たのではないか。なぜ家に帰らないのか。」11 ウリヤはダビデに答えた。「神の箱も、イスラエルもユダも仮小屋に宿り、わたしの主人ヨアブも主君の家臣たちも野営していますのに、わたしだけが家に帰って飲み食いしたり、妻と床を共にしたりできるでしょうか。あなたは確かに生きておられます。わたしには、そのようなことはできません。」ダビデはウリヤを帰宅させようとしますが、軍の規律に忠実であることをもって王に仕えようとする彼の意思は変わりません。ダビデの計画は次の段階に進みます。14節以下です。14 翌朝、ダビデはヨアブにあてて書状をしたため、ウリヤに託した。15 書状には、「ウリヤを激しい戦いの最前線に出し、彼を残して退却し、戦死させよ」と書かれていた。16 町の様子を見張っていたヨアブは、強力な戦士がいると判断した辺りにウリヤを配置した。17 町の者たちは出撃してヨアブの軍と戦い、ダビデの家臣と兵士から戦死者が出た。ヘト人ウリヤも死んだ。 
悪魔が得意とするウソは、「チョットした罪を犯しても誰にも知られないで済むから大丈夫。」こう言って人を誘惑することです。しかし、罪は必ず知られてしまいます。隠しに隠して墓場まで持っていくことが出来たとしましょう。誰も知る者はいません。しかし、神様の目を欺くことは不可能です。「いつもあなたと共にいる。」この様な方に何か隠し事をするのは不可能です。全てをご存じなのです。さらに、ダビデが前線の指揮官に書き送った書状、これは王から指揮官への命令書ですから軍隊における最高機密文章です。しかし、この文章は現在、世界で毎年3,500万冊ほど発行される聖書を通して世界人口の1/3程がこの事実を知るのです。神に対して罪を隠すことはまったく出来ません。
マルコ福音書1章15節で主はおっしゃいます。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」悔い改める、すなわち自分の犯した罪を罪と素直に認め、祈りの中で神に告白するのです。そして福音、すなわち主が私の罪を私に代わって負って下さったと言う喜ばしい知らせを信じて人生を歩むのです。そこにあるのは悪魔から解放され、主と共に歩む自由な人生です。楽しい人生です。
ここでダビデは十戒にうちの4つの戒めを破ります。十戒は讃美歌93-3 144ページにあります。第6戒 殺してはならない。第7戒 姦淫してはならない。第9戒 偽証してはならない。第10戒 隣人の妻を欲してはならない。ダビデ王は預言者サムエルによって油を注がれました。私たちは洗礼において聖霊を注がれました。ダビデ王はゴリアトやサウル王によってもたらされた数々の危機的状況から守られました。わたしたちは、多くの恵みをいただいて、ご一緒に今ここで礼拝を捧げることができます。しかし、ダビデ王がそうであったように、私たちは悪魔の誘惑に対して、自分で思っているよりもズット弱いのです。「私は大丈夫、今まで大した罪を犯したことがない。」この様な方にお尋ねします。ではなぜ、主はあなたにこの様に祈りなさいと教えられたのでしょうか?先ほど読んでいただいたルカ福音書11章2節以下です。11:2 そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、 御名が崇められますように。御国が来ますように。3 わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。4 わたしたちの罪を赦してください、 わたしたちも自分に負い目のある人を 皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」
私たちは普段マタイ福音書に基づいた主の祈りを祈っています。ルカ福音書では表現が簡素になっていますが、要点は同じです。私たちはしばしば主の祈りをみんなで祈ります。今日もこれから献金を献げた後で祈ります。「わたしたちを誘惑に遭わせないでください。」あるいは「試みに合わせず、悪より救い出し給え。」と祈ります。私たちは悪魔の誘惑に負けて今なお罪を犯します。神が罪に対して本当に弱いことをご存じなら、なぜこの祈りを聞いて下さらないのでしょうか?それは神さまが不誠実だからなのでしょうか?それでは皆さんは、主の祈りが心に響いている時に、悪魔の誘惑に負けて罪を犯すのでしょうか?もちろん主の祈りは魔よけのお題目ではありませんが、祈りに力があることは事実です。なぜ神様が悪魔を野放しにされているのか、確かに悪魔は今日も元気でありその理由は分かりません。しかし、終わりの日、すなわち主イエスが再び来られる日に、悪魔を完全に打滅ぼされることは確かです。聖書が告げています。従ってどんなに悲惨な状況、悪魔が勝ち誇っているような状況にあってもなお、私たちは希望を持つことが出来るのです。
この様な話があります。一人の人が道を歩いていた時、そこにあった穴に落ちてしまいました。穴は深くて自分一人で這い上がることは不可能です。「オーイ助けてくれー。」その声を最初に聞きつけてやって来たのは医者でした。彼は穴の中を覗いて男を見つけると、紙を取り出し処方箋を書いて穴に投げ込み、行ってしまいました。男の叫びを聞きつけて、次に来たのは牧師です。穴の中を覗いて男を見つけると、紙を取り出し祈りの言葉を書いて穴に投げ込み、行ってしまいました。男はなおも叫び続けます。次に彼の友達がやってきました。この友達は、穴の中の男を見つけると穴の中に飛び込みました。すると穴の中の男は「なんて馬鹿なことをするんだ。二人とも出られなくなっちゃうじゃないか。」しかし、その友達は言いました。「私は以前この穴に落ちたことがあるんだ。だからどうやれば出られるか知っているんだ。さあ、私に続いて一緒にここから出よう。」もし、あなたが何か試みの穴に落ちたとしたら、かつてその誘惑に負けて苦しんだ人に脱出方法を聞くのが良いのです。
これは以前にお話ししましたが、昨年持たれた山形刑務所でのクリスマス会で奉仕してくださった進藤達也牧師は前科3犯です。彼は指定暴力団員で若いころから麻薬の売人や恐喝などを繰り返し、3回目に刑務所に入った時に信仰が与えられて、後に牧師になった方です。その教会は元やくざが集う教会で、多くの回心者が与えられているとの事です。クリスマス会では、受刑者に「未来はだれでも変えられる。」この様に勇気づけるとともに、失った信用を取り戻すことの大変さを自分の経験に基づいて語り、そんな自分と共に歩んでくださる主の愛を篤く語ったのです。全て穴に落ちたことが主のご計画だとは申しませんが、穴に落ちた者をも用いて下さる主を確かに私は見たのです。大変厳しい環境にある方々になお働かれる聖霊の業を見せていただく場でありました。人生における数々の失敗、特に悪魔の誘惑に負けることは、後に同じ穴に落ちた人を助けるためなのかも知りません。神様は罪人をも用いられる方です。神は使徒パウロを用いられました、進藤達也牧師を私を、そして何よりもダビデ王を。そのダビデ王が十戒の内の四戒を破っていることを見ましたが、実は重大な違反がまだあるのです。それは第一戒 あなたには、私をおいてほかに神があってはならない。この一戒を破っています。ダビデはこの時、明らかに神を神とするのではなく、悪魔に従ったのです。
今日最初に、聖書は不都合なことも全く隠すことなく告げているのだと申しました。主イエスがダビデ王の子孫であることを聖書は隠しません。世間の宗教と同じような見方をすれば、教祖と位置付けられる方は、自分の神を無視するだけでなく、第6戒 殺してはならない。第7戒 姦淫してはならない。第9戒 偽証してはならない。第10戒 隣人の妻を欲してはならない。これらすべてを破った悪人の血を引いていると言うのです。なぜでしょうか? 一つには、神がアブラハムと交わされた契約、その子孫の繁栄を約束されたからでありましょう。しかし、もっと大きな理由。それは私たちの罪を全て引き受けてくださった方、主の福音は全ての悪、悪魔の業を乗り越える力がある。このことが明らかにされるためではないかと思うのです。11章26,27節 26 ウリヤの妻は夫ウリヤが死んだと聞くと、夫のために嘆いた。27 喪が明けると、ダビデは人をやって彼女を王宮に引き取り、妻にした。彼女は男の子を産んだ。ダビデのしたことは主の御心に適わなかった。ダビデは良心の呵責は覚えたでしょうが、その計画は首尾よく運びました。そしてウリヤの妻を正式に妻として迎え入れたのです。しかし、彼の行ったことは、主の御心に適わなかった。この様に聖書は告げています。
出来事の続きは来週読み進めたいと思いますが、このサムエル記シリーズのテーマ、人生における難題への対処に関して再度触れておきます。私たちが悪魔の巧みな誘いの言葉に惑わされた時、さらに罪の縄目にとらえられた苦しみにある時、もちろんその経験がなければそれは幸いです。しかし、その自覚がないのであればそれは問題です。悪魔の巧みな誘いに捕えられたと気づけば祈るでしょう。その祈りにおいて問われるのは、神に対して自分の罪を認める勇気です。神は必ずやその祈りを聞いて下さいます。そして、神様に悔い改めの心を示したならば、自分だけで解決しようとしないで人に話すことです。カトリック教会は告解と言う罪を告白する制度を持っていますが、プロテスタント教会はその告解が形式化する弊害を覚えた結果、礼拝の中で自分の罪を自覚し告白するのだとします。それに加えて私に、長老さんに、信仰の友に相談することは大切です。相談して一緒に祈るのです。もしその穴が私が落ちたことのない穴であったならば、ふさわしい方を紹介することもできるでしょう。師に頼ると共に信仰の友に頼る勇気もまた大切なのです。私たちの抱える弱さ、悪魔はその弱さをついてささやきかけ、罪へと誘う名人です。本日の説教題を「誘惑」としました。ダビデの犯した、殺人、姦淫、偽証、隣人のものを欲する、これらの罪を自分は犯していませんと言うことは無意味です。なぜなら人はダビデの犯したもう一つの罪、「神を神としない罪」と無縁ではあり得ないからです。しかし、このレントの時、私たちは知っているのです。すでに主が悪魔に勝利なさったことを。十字架への道は敗北への道ではなかったことを。共に祈りましょう。