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山形六日町教会

2017年3月26日

聖書:箴言28章20~28節 ルカによる福音書12章13~21節
説教シリーズ ルカ福音書-66「愚かな者よ」波多野保夫牧師

先週の主日礼拝の後、牧師就任式が持たれ、あらためて山形六日町教会の牧師として招聘していただきました。これを主の御心と信じご一緒に主の教会の前進の為に仕えて参りたいと思います。
レント第4週となりました。主のご受難の時を特に覚えて過ごすこのレントの期間は、今年は3月1日になりましたが灰の水曜日に始まり、イースターの前日4月15日土曜日までの46日間となります。4旬節ともよばれますが、4旬とは40日を意味します。これは、レントの期間中に有ります、6回の日曜日は、主イエスが蘇られたことのいわば記念日なのでレントの日数に勘定しない習慣になっているからです。いずれにしろ、世界の多くの教会が、主の復活なさった日、イースターに向けてそのみ苦しみを覚えながら生活するのです。
先週は、「ダニエルの断食」を紹介しました。これは願掛けのための断食ではなく、何か自分の好物を自分で決めた期間断つことによって、それを食べたいと思うたびに、はっとして主イエスの十字架での苦しみの気づきを与えられる、そのための断食です。実際に行ってみた方、心の中で手を挙げてみて下さい。きっと主イエスをより身近に感じる、そういった豊かな時を過ごされたのではないでしょうか。
さて、12章1節では数えきれないほどの群衆が集まって来て、足を踏み合うほどになったとありました。その時主はまず弟子たちに向かって話され、慈愛に欠けるファリサイ派を偽善者だと厳しく断罪されました。4節以下では、友人であるあなた方に言っておく と呼びかけられ、神はあなたの良い点も悪い点も全てをご存じの上で、あなたを愛されているのだ。だから恐れるな とおっしゃったのです。先週は8節以下で、人々の前で自分は主イエスの仲間だと言い表すことの幸せ、さらに今も生きて今も働かれる聖霊を信頼すべきことを強調されたのでありました。これらはキリストの弟子、すなわち既に洗礼を受けた私たちに対して大きな気づきを与えるとともに、大きな警告でもありました。なぜなら主の愛を疑うことは聖霊を冒涜することにつながるからです。 この様にまず弟子たちに教えを語られましたが、それが一段落した時でしょう。主イエスを取り巻く群衆の一人が言いました。13節以下です。12:13 群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」12:14 イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」主イエスを先生と呼んでいます。本来律法に基づいて裁判を行うのは律法学者の役目でしたから、主イエスの語る力ある言葉と業に尊敬の念をいだいた群衆の一人が、兄弟間での遺産相続のもめごとに対し、エスさまから自分を有利にする権威ある言葉を期待したのでしょう。遺産相続に関しては、現代においてももめごとが多いそうですが、旧約聖書にあります律法にも財産分与の規定が記されていますから、どの時代においてもいさかいの種なのでしょう。
申命記21章17節によれば長子が2/3を次男が1/3を相続することになっていました。彼はこの規定が守られていない不満を持っていました。「律法に通じている先生から、私にも遺産を分ける様に言って下さい。」主イエスは答えられます。「私が来たのは律法学者の役目をするためではない。私が来たのは神の国、すなわち神様の支配が行き届いた場所と時間が近づいている。だから悔い改めて神に立ち返ることをみんなに求める、そのためなのだ。」12章16節以下です。12:16 それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。12:17 金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、12:18 やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、12:19 こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』この聖書箇所の小見出しには「愚かな金持ちのたとえ」とありますが、ここで注目したいのは、この金持ちはなんら不当なことをしていないことです。彼の畑で働く労働者を不正に扱ったり、もちろん盗みを働いているわけではありません。先祖からの土地を受け継いだのかも知れませんが、彼の勤勉さと才覚が、豊かな自然の恵みを生かして有り余る収穫を得て、しまっておく場所に困るほどの財産を築くことへと導いたのです。この金持ちは将来の人生設計をします。もっと大きな倉を建ててそれを穀物や財産でいっぱいにしよう。そうしておけば飢饉がやってきても今の生活が維持できる。安心して人生を楽しむことが出来る。
主はおっしゃいます。20節21節 12:20 しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。12:21 自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」
では、彼にとって何が問題だったのでしょうか。富を持ったこと自体は問題にされていませんが、与えられたものの用い方が問題なのです。私は以前こんな話を聞いたことがあります。19世紀の英国の政治家で四回に渡って大英帝国の首相を務め、生涯敬虔な英国国教会・聖公会の信者であった、ウィリアム・グラッドストンの許に、彼の友人の息子が、自分の将来について相談するかめに訪ねて来た時のことです。「君は一体何をしたいんだ?」グラッドストン首相は聞きました。「まずはオックスフォード大学での学びを終えたいと思います。」「それは素晴らしい。で、それから?」「はい、それから法律を学んで有名な弁護士になりたいんです。たぶんロンドンで。」「素晴らしい。それから?」「それから政党で偉くなって内閣に入って大臣に成りたいんです。」「いいね!それで?」「それで、本当は今のあなたの仕事に就いて、今あなたがなさっているように、女王陛下に仕えたいんです。」「それは高貴な考えだ、それで?」「それから総理大臣として長い間務めた後、政界を引退します。」「いつかはそうなるだろうね。それから?」「それから、気力も体力もあるうちに社会に奉仕し、女王陛下に仕えます。」「見上げた望みだが、それから?」「そうですね。それから完全に引退して、やがては死にます。」彼は続けました。「いつかは君も死を迎える。それから?」「それから先なんて考えたことはありません。」グラッドストンは椅子から身を乗り出して言いました。「君はおろかだ。家に帰ったら終わりの日を思いながら自分の人生について考えなおしてみなさい。そうすればきっとこの今と言うものが、どんなに大切なのか、必ずや見えてくるよ。」彼がこの若者に言いたかったこと、それは神様から与えられた才能と時間をどの様に生かし、また用いるか、そのことを考えなさいと言うことでした。
私たちは多くのものを神様からいただいています。お金・食べもの・着るもの。ではそれらが本当に豊かな賜物だと感じているかと言えば、いかがでしょうか、不満に思うことも有るのではないでしょうか。心理学者によれば、人間の感じる豊かさは絶対値ではなく現在の自分と周囲との相対値だそうです。「発展途上国に比べて、あるいは戦後の混乱期に比べて今の日本は豊かだ。」この様に言うことはあまり意味がなく、周りの人に比べて、あるいは人生の一時期と比べて貧しいとか豊かだとか、あるいは豊かになったと感じるのだそうです。
これは以前に申し上げましたが、津波の2週間後に釜石に入った時の私の印象です。被災された方には申し訳ないのですが、水をかぶって使えなくなり、道路に山と積まれた生活用品の多さに、正直に言って驚かされました。こんなにたくさんの物を所有して私たち日本人は生活をしているのだと驚かされたのです。豊かだ、あるいは貧しいと感じるのは周りと比較してなのだと申しました。私たちがいかに多くの物を使って生活しているかを申しました。十分なものが与えられているので、必要以上に求めずに今あるものに満足しなさい。これは仏教思想にもあります。高校の修学旅行で京都の竜安寺に行きましたが、そこに丸いつくばい、これは茶室の前に置かれて手を洗う場所ですね、この石のつくばいの真ん中に水を入れる四角い部分があって、その周りに上から漢数字の五の下に口を書いた吾と言う字、右に唯一の唯と言う字、下に足りるの足と言う字、右に知るの知と言う字が彫られていました。すべての漢字に共通する口と言う部分が水をためる四角く掘った部分になっていました。その時感銘を受けたのでしょう。半世紀たった今でも覚えています。「われただたるをしる」です。きっと自分から最も遠い言葉なので記憶に残っているのでしょう。
しかし、主イエスの指摘は与えられたものに満足することを促すだけではありません。もっと積極的です。少し先になりますが12章33節に、尽きることのない富を天に積みなさい。 この様にあります。主はおっしゃいます。 20節21節 12:20 しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。12:21 自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」
私たちは何時かはこの世を去ります。これは私にとっても、皆さんにとっても100%真実です。山形六日町教会の納骨堂に「我らの国籍は天に在り」と刻まれているとおり、神が完全に支配し共にいて下さる天、悲しみや苦しみとは無縁の所に帰ります。その時に持って行くことの出来るものに心を向け、その為に汗を流すのか、置いていかざるを得ないものに汗を流すのか。与えることに幸福を見出すのか、蓄えることに幸福を見出すのか、それが問われるのです。
人生には二つの悲劇があるそうです。望んだものを手に出来ない悲劇と、望んだものを手にした悲劇です。なぜならその手にしたものが究極的な満足を与えることは無いからです。にもかかわらず 私の服、私の家具、私のお金、私の仕事、私の家族、私の友人、私のお金、私の将来、そして私の命、私たちはそれらを得たり守ったりするのに必死になります。しかし、これらすべての真の所有者は天の父、神様なのです。20節 12:20 しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。私たちのいただいているものはそれだけではありません。・時間・才能・健康まだまだあります。首相のグラッドストンは才気あふれる若者にその才能をどの様に使えば神様が喜んでくださるのか、そのことに気づいてほしかったのです。
金持ちの願ったのは、多くの穀物と財産を生涯に渡って持ち続けることでありました。その陰には穀物や財産を失うことへの恐れがあり、彼の勤勉さはこの恐怖に根差したものでありました。だから彼は言うのです。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、12:19 こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』主イエスは現在の彼を金持ちと呼んでいます。しかし、彼は大きな倉がいっぱいになったらひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ と言うのです。それまでの彼には休息もなく人生を楽しみ喜ぶことは無いのでしょう。
いかがでしょうか、彼の建てた大きな倉が穀物や財産でいっぱいになった時、はたして彼はひと休みして、食べたり飲んだりして楽しむのでしょうか?
最初に旧約聖書の箴言を読んでいただきました。28章22節 28:22 貪欲な者は財産を得ようと焦る。やって来るのが欠乏だとは知らない。現代でいえば焦って投資をしてすべてを失うと言った警告でもあるでしょうが、財産にだけ心を向けた時、やってくるのは心が満たされない思い、すなわち不安や恐れなのだ、この様に理解することもできます。箴言28章20節 28:20 忠実な人は多くの祝福を受ける。富むことにはやる者は罰せられずには済まない。25節28:25 貪欲な者はいさかいを引き起こす。主に依り頼む人は潤される。26節28:26 自分の心に依り頼む者は愚か者だ。知恵によって歩む人は救われる。 そして27節 28:27 貧しい人に与える人は欠乏することがない。明治生まれのクリスチャンであった私の祖母は、ダニエルの断食ではありませんがレントの期間、自分の楽しみごとを避ける習慣を持っていました。その様な祖母は、これはもう一種の義務感とでも言うのでしょうか、何か貰い物をすると一生懸命お返しのことを考えて悩んでいました。あの人にはこれが良いだろうか。でも既に持っているのではないか。何日も悩んでいたようです。これは苦しみであると同時に、友人のことを考える喜びの時であったに違いありません。
さて私たちがいただいた贈り物、神様からいただいている贈り物は、日々の糧から始まり、生活にかかわるもの全てであり、私たちの人生にかかわるすべてのものであることは既に申し上げました。しかし、これですべてではありません。一番大事なものが抜けています。そうです神の最高の贈り物は私たちと同じ肉体をまとっていました。生ける神の子キリストです。十字架の道を歩みわたしたちの罪を追い、神との正しい関係、祈りを聞いて下さる関係を回復してくださった、主イエス・キリストです。その方が十字架へと向かわれたこのレントの時は、その方の贈り物の素晴らしさと、その方の贈り物によって示された神の愛を思う時なのです。もし、私の祖母の様に送り主である神様にお返しをするとしたらいったい何が相応しいのでしょうか?何しろ、神は全てのものを創造され、全てをもっていらっしゃいます。 本日の説教題を「愚かな者よ」といたしました。私たちが主からその様に言われないためにはどうすれば良いのでしょうか。箴言28章27節は言います。28:27 貧しい人に与える人は欠乏することがない。ルカ福音書12章21節 12:21 自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。
私たちはこの後讃美歌513番「主は命を」を賛美します。この曲の原題は I gave my Life for Thee ですが、直訳すれると「私は私の人生を主におささげしました」となります。一番では主のご受難を感謝を持って告白した後に、「その主に私は どう応えよう。」二番では「主のため私は 何を捨てよう。」三番では再び「その主に私は どう応えよう。」この様に賛美いたします。いただいた宝を倉に納める愚かな者ではなく、主にささげる賢い者でありたいと思います。ささげる喜びを共にしたいと思います。祈りましょう。