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山形六日町教会

2017年3月19日

聖書:イザヤ書40章3~8節 ルカによる福音書12章8~12節
説教シリーズ ルカ福音書-65「自分の仲間」波多野保夫牧師

レント第3週となりました。このレントの時が来ますとご紹介することの一つに「ダニエルの断食」があります。断食は最近ではダイエット法の一つであったり糖尿病の療法として取り上げられるようですが、古くからいろいろな宗教で行われてきました。修行僧が煩悩を絶つために行ったとも言われますが、私などはお腹が減ったらかえって雑念が起きてしまいそうです。また、願い事をかなえるために一種の願掛けとしての断食もあります。
「ダニエルの断食」はそれらとは全く無縁です。旧約聖書のダニエル書には3種類の断食があり、週報にメモを書きました。
1章12節は10日間野菜と水だけで肉類をとらない断食です。15節には1:15 十日たってみると、彼らの顔色と健康は宮廷の食べ物を受けているどの少年よりも良かった。 この様にありますから、現代のダイエットに通じるのかもしれません。
9章3節は 9:3 わたしは主なる神を仰いで断食し、粗布をまとい、灰をかぶって祈りをささげ、嘆願した。これはバビロン捕囚の時代、その原因はイスラエルの民が神の戒めを守らなかったからなのだとの思いに至ったダニエルが、神の赦しとエルサレムの復興を願う悲痛な祈りの姿です。ダニエルは水だけをとりました。
そして、ダニエル書10章2節3節です。10:2 そのころわたしダニエルは、三週間にわたる嘆きの祈りをしていた。10:3 その三週間は、一切の美食を遠ざけ、肉も酒も口にせず、体には香油も塗らなかった。
レントの時にあってお勧めしている断食は3番目のものです。自分で決めた食べ物、嫌いなものではなく好きなものを、レントの期間は46日と長いですから、自分で決めれば良いのですが、その期間断つのです。目的は、主の苦しみに気づくためです。もちろんそんなことで主の苦しみの大きさを知ることは出来ないでしょう。しかし、気づきは得られます。「あ、今レントだったんだ。」この気づきが目的であり、感謝の思いを持つのです。ですから強い信仰をお持ちの方にはこれは不要です。この「ダニエルの断食」は人に言う必要はありませんが、親しい人と話題にするのも良いでしょう。そして、主の十字架に関しての祈りを共に出来れば、これは喜びの時になります。あくまでも願掛けではありませんし、達成できなかった時に、鶏が鳴く前に3度主を知らないと言ってしまったあのペトロの悲しみに思い至るのもよろしいと思います。どうぞ主の恵みを思う業としてチャレンジしてみて下さい。

与えられました、聖書の告げます主のみ言葉に耳を傾けて参りましょう。本日はルカによる福音書12章8節から12節までの比較的短い箇所です。しかし、主は3つの大切なことをおっしゃっています。8節9節では、ご自分の仲間だと言って下さる。本日の説教題はここから採り「自分の仲間」としました。10節では、聖霊を冒涜するものは赦されない。11節12節では、聖霊がその時に教えて下さるです。
順に見ていきましょう。8節9節。12:8 「言っておくが、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、人の子も神の天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言い表す。12:9 しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、神の天使たちの前で知らないと言われる。「人々の前で自分を主イエスの仲間だと言い表す者」とおっしゃいます。どの様な事を想像されるでしょうか?1911年100年以上の時が経っていますが、山形市街の大火の際、私たちの先輩はミッションから天幕の寄贈を受けて、旅篭町で「主われを愛す」を歌い路傍での天幕伝道を行いました。「供養とお布施・祈祷を怠ると罰が当たると信じる人々に救いを伝えたいからであった。」120年誌はこの様に伝えています。以前はクリスマスの頃、大沼デパートの前で山形学院の生徒さんたちがハンドベルでキャロルを演奏したと聞きました。最近、日本基督教団内のホーリネスの群れに属します仙台青葉荘教会は宮城県庁の傍で月一回路傍伝道を始めたそうです。 皆さん主イエスの仲間だと言い表しております。
それでは「人々の前でわたしを知らないと言う者」とはどうでしょうか?
先ほど「ダニエルの断食」の所でも触れました。鶏がなく前に3度主イエスを知らないと言ったペトロがその代表でしょう。しかし、忘れてはならないことは、ペトロは主の十字架と復活の出来事を経験した後、力強く主の福音を各地に述べ伝え、最後はローマで殉教したと伝えられているのです。私の場合は、以前お話ししたように、社内報の新入社員特集のモットー欄に「日曜日は教会に行く」と書いたのですが、これは猛烈社員時代に在って日曜出勤をしないための予防線でした。以後、クリスチャンとは立派な行いをする人、と言った世間一般の見方からのがれるために、会社においてそれを言い表すことはほとんどありませんでした。主イエスの仲間だと言い表すことも、また主イエスを知らないと言うこともなかったのです。 その様な私を、今主は牧師として用いて下さる。本日、午後に持たれます就任式は正に主のご計画によるものであり、感謝の思いでいっぱいなのです。
皆さん方も路傍伝道ではなくても、また牧師の道ではなくても、様々な方法で「主の福音を表していく」ことは可能ですし、なさっていることでしょう。これは最終的には福音の伝道につながり、教会に家族や知人を招くことですが、全ては自分が主の福音に生かされているとの喜びを表していくことから始まります。もし、不満に満ちた様子で有るのならば、誰もそんなところに行こうとは思いません。私たちが福音の喜びを表す時、主イエスは「神の天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言い表」してくださるのです。喜びは喜びを生むのであります。
10節12:10 人の子の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は赦されない。人の子とは主イエスがご自分のことをこの様におっしゃいます。主イエスの悪口を言う者は皆赦される。いかがでしょうか?主イエスの悪口を言った経験はおありでしょうか? では、思ったことはおありでしょうか?ここで神学的な知識に明るい方はこんな疑問を持たれるかも知れません。父・子・聖霊なる神は三位一体、すなわちその本質を一つにする一人の神なのだから、主イエスは良くて聖霊はだめと言うのは変ではないかと。なかなか良い疑問です。主イエスがこの言葉をどの様な状況で語られたかを見ておきましょう。その前に新約聖書にあります福音書の成立にちょっと触れておきます。
マタイ・マルコ・ルカ福音書は共通した記事も多く共観福音書と呼ばれます。これは内容と表現に共通点が多いことを指しています。ちなみにヨハネ福音書には独特の記事や表現が多く第4福音書ともよばれます。ただしこれは福その価値とは全く関係なく、4つが少しずつ違った観点から証言する主イエスの出来事は、全体で完全にそれを私たちに伝えるのです。これは4つそろわないと不完全と言う意味ではありません。私たちの鈍さを補うために4つが主によって備えられているのです。
さて10節12:10 人の子の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は赦されない。この言葉はマタイとマルコ福音書にもあるのですが、両福音書では、ベルゼブル論争のすぐ後に置かれています。後で聖書を開いてみて下さい。もう少し福音書の成り立ちについて語れば、各福音書は主イエスの死後40年から60年ほど後に、それぞれの教会の中で言い伝えられていた断片的な主の出来事や語られた言葉が福音書記者によって収集され全体のストーリー性を整えて編纂されたものです。ビディオや録音はもちろん主イエスご自身の手紙や著作はありませんし、伝記作家が同行したわけでもありませんでした。
マタイとマルコ福音書ではイエス様が行った癒しの業をファリサイ派の人々が悪霊の頭ベルゼブルの力で行ったのだと非難した、その背景の下で 人の子の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は赦されない。このみ言葉を受け止めたのです。聖なる方の業を邪悪な霊の業と断言したことは赦されない行為だと述べます。まことにその通りです。
では私たちが読み進めているルカ福音書はこの言葉をどの様に捉えたのでしょうか。ルカは十字架上で自分を十字架につけ人々に対しての、主イエスの言葉を伝えています。ルカ福音書23章34節です。23:34 〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。自分が何をしているのか知らない、すなわち人の姿をとって地上に来られた神、真の人であり真の神である方を十字架に架けその服をくじ引きで分け合う、この究極の犯罪も彼らの無知の故である限り、主は彼らの赦しを祈られる方なのです。と言うことは、生きて働く聖霊の業、すなわち今もこの山形六日町教会にそして連なる一人一人の日々の生活を通して働かれる聖霊の愛の業と豊かな恵みを知っている私たちにとって、聖霊を冒涜することは赦されません。私たちは無知ではないからです。主の与えて下さる恵みを知る者だからです。三位一体の神のなさる愛に満ちた恵みの働きを冒涜することは、たとえ人間イエスを冒涜する、その最たるものが十字架に架ける行為でしたが、そのことが赦されようとも、神のみ業、そして神のご計画を冒涜することは赦されないのです。この点において私たちに大いなる反省が求められます。11節12節12:11 会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたときは、何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。12:12 言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる。」会堂や役人、権力者とあります。神殿はエルサレムに一つだけ存在し、祭司たちによって犠牲がささげられ、神の赦しを得るいわゆる神殿祭儀が行われる神聖な場所でした。これに対して会堂はユダヤの各地に存在し、旧約聖書を読み、解き明かしが行われ祈りがささげられただけではなく、政教一致社会における教育や社交の場であり、また裁判も会堂で行われました。主イエスは会堂に入りイザヤ書を朗読されましたし、使徒パウロは安息日ごとに会堂で主の福音を語ったと聖書は伝えています。役人、権力者にはローマ帝国の役人や最高法院の議員もいたでしょう。主イエスご自身が、最高法院で、領主ヘロデとローマ総督ポンテオ・ピラトの下で尋問されることになりました。言い伝えによればイスカリオテのユダを除く11人はこの様な者達によって裁かれて殉教したのです。何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。12:12 言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる。殉教者にとってもこのみ言葉は真実でした。しかし、それは自分の身の安全を守る言葉ではなく、聖霊が教えて下さったのは2000年後にまで語り継がれるための言葉でありました。
では私たちにとってどうでしょうか? 現代においてキリストの仲間であると言い表すことで、罪に定められたり、十字架に架けられたりすることは、少なくとも日本においてはありません。歴史的には先ほどご紹介しました仙台青葉荘教会が属しますホーリネスの群れは、第二次大戦下にあって激しい弾圧を受けました。そう遠くない昔の話です。現代にあって私たちに聖霊が教えて下さる「言うべきこと」とは何でしょうか? もちろん信仰を言い表すのですが、その中身は、日本基督教団信仰告白に表されています。さらに要約すれば使徒信条でしょう。そして、さらに短い言葉にすれば、それはペトロの告白、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。この言葉になります。
最初に、本日の短い聖書箇所は3つのことを告げていると申しました。8節9節では、ご自分の仲間だと言って下さる。10節では、聖霊を冒涜するものは赦されない。11節12節では、聖霊がその時に教えて下さるです。これらは全て、私たちの発する言葉の問題、何を言うかの問題では終わりません。私たちがどのような生き方をするのか、私たちの全人格の在り方を問います。なぜならば、主イエスがその全人格をかけて十字架への道を歩まれたからです。このことを感謝をもって強く受け止める時、それがレントの時なのです。もし感謝の気持ちが薄いと感じられるならば、「ダニエルの断食」を少しハードルを高くして実行してみて下さい。そして自分の弱さに気づいたとき「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。この言葉を口にしてみて下さい。主は必ずや言って下さるでしょう。「あなたは私の仲間だ」と。
昨日、アルファ・コースの最終回、15回目を持つことが出来ました。タイトルは「人生を最高に生きるには」ニッキー・ガンベル牧師は、過去と決別し新しいスタートを切るように促しました。彼は、「人生にリハーサルはありません。私たちは既にステージに立っているのです。過去がどうであれ、これからの人生で主を証しすることができるのです。そのためには、陰口や誹謗中傷から離れて人の励みになることを言う。愚痴を言うのではなく感謝と喜びを全身で表す。性のモラルをただし、愛と責任と安心と共に生活する。私たちクリスチャンは、世間のやり方に押し込められるのではなく、イエス様の似姿となっていくのです。」それは聖書を全巻読み注解書を調べ毎日長い時間祈ることではありません。もっともそれが出来れば悪いことではないのですが。そうではなく聖霊に心を開くことです。素晴らしい私の人生は私が描くのではないのです。神様が用意してくださいます。ただしこれは神様任せで怠惰に過ごすことではありません。反対に学生ならば真剣に勉強し、社会人ならば真剣に仕事をし、家族や隣人に奉仕するのです。聖書に親しみ祈りを忘れないことです。それがどんなにわたしたちを思い煩いから解放し、自由にしてくれるかが力強く語られました。その中で、世間のやり方に逆らうことになれば、必ずや非難の声が上がるでしょう。
ルカ福音書12章12節です。12:12 言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる。これがイエス様の言葉です。最後にイザヤ書40章3節から8節をお読みします。お聞きください。40:3 呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備えわたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。40:4 谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。40:5 主の栄光がこうして現れるのを 肉なる者は共に見る。主の口がこう宣言される。40:6 呼びかけよ、と声は言う。わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか、と。肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。40:7 草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。40:8 草は枯れ、花はしぼむが わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。祈りましょう。