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山形六日町教会

2017年3月5日

聖書:サムエル記下6章1~15節 ローマの信徒への手紙4章13~17節
説教シリーズ サムエルに聞く-8「契約の箱」波多野保夫牧師

説教シリーズ・サムエルに聞くの8回目になりました。上下2巻に渡りますサムエル記はダビデの生涯に渡って彼を愛し続けられた神、その神の愛にも関わらず罪を犯すダビデ、そして立ち返るダビデを受け入れて下さる神。 そのストーリーを通して、私たちの人生の様々な局面において、私たちを愛し続けて下さる神を見つめ、その愛をあらためて知るシリーズです。ただし、その神の愛は猫かわいがりの愛ではなく、ある時は厳しく罰し諭し勇気を与え雄々しくあることを求め、またある時は慰め励まし勇気づけて下さる。そういったスケールの大きな神の愛です。
少年ダビデがペリシテの巨人ゴリアトを石投げ紐一つで倒すことから始まったこのシリーズも、サムエル記下に入りダビデはイスラエルの王となっています。本日与えられましたサムエル記下6章の小見出しには「神の箱をエルサレムへ運び上げる」とあります。12部族からなるイスラエルを統一したダビデ王は高地にありますエルサレムを首都と定め、神に導かれる国家運営を目指しました。そのためには、礼拝の中心となる「神の箱」をエルサレムに運び上げることが必要だったのです。
本日は「神の箱」がどのようなものであったのか、その話から始めたいと思います。出エジプト記には、イスラエルの民がモーセを指導者として奴隷となっていたエジプトの地を脱出し、荒野をさまよう姿が描かれていますが、24章ではモーセに十戒を刻んだ石の板が与えられました。25章から30章には荒野における礼拝の祭具や場所、祭儀の行い方などが細かく記されています。
約束の地に向かうモーセ一行が持ち運びできる、神のおられる場所は聖なる幕屋と呼ばれ、これは一種のテントでした。その幕屋の中に「神の箱」は安置され、そこで日々の礼拝が守られました。「神の箱」はまた「契約の箱」とも呼ばれますが、アカシアの木材で作られ、長さが約120センチ、幅と高さが70センチ程で、その外観や中におさめられている物について、新約聖書へブル人への手紙9章3節以下に聖なる幕屋の様子が記されていますのでお読みします。9:3 また、第二の垂れ幕の後ろには、至聖所と呼ばれる幕屋がありました。9:4 そこには金の香壇と、すっかり金で覆われた契約の箱とがあって、この中には、マンナの入っている金の壺、芽を出したアロンの杖、契約の石板があり、9:5 また、箱の上では、栄光の姿のケルビムが償いの座を覆っていました。箱の蓋には天使の像が向き合って付いており、箱の中には、十戒を刻んだ石の板とマナが入った金のツボ、さらにアロンの杖が収められていました。 アロンの杖は、民の指導者としてのモーセとアロンに反発する反乱が起きた際、神がイスラエル12部族からアロンの家系であるレビ人を選ばれた、その印として アロンの杖が芽を吹き、つぼみを付け、花を咲かせ、アーモンドの実を結んだ この様に民数記17章23節は伝えています。そのアロンの杖です。以後レビ族は祭司として神に仕える部族となりました。
「神の箱」におさめられているマンナの入っている金の壺、芽を出したアロンの杖、契約の石板 はイスラエル民族を神の民として選んでくださった神の愛を示します大切な品であり、神の宿られる幕屋に収められた「神の箱」は神ご自身をも表す、まことに聖なるものでありました。6章2節に「神の箱」はバアレ・ユダから出発したとありますが、それのたどった歴史を見ておきましょう。
ダビデの時代イスラエルは常にペリシテとの戦いに明け暮れていました。少年ダビデがペリシテの巨人を倒した話を最初にしましたが、それに先立つサムエル記上4章によれば、イスラエルが大敗し4000人もの兵士が戦死した戦いの後、戦場に「神の箱」を運び込むようになったのです。これは一種のお守りとして戦場に「神の箱」を持ち出したのです。その時、彼らは神を礼拝するのではなく、「神の箱」を礼拝したのです。これはもはや偶像礼拝でした。結果は、イスラエル軍の大敗。「神の箱」はペリシテ軍に奪われてしまいました。サムエル記上5章1節以下です。5:1 ペリシテ人は神の箱を奪い、エベン・エゼルからアシュドドへ運んだ。2 ペリシテ人は神の箱を取り、ダゴンの神殿に運び入れ、ダゴンのそばに置いた。3 翌朝、アシュドドの人々が早く起きてみると、主の箱の前の地面にダゴンがうつ伏せに倒れていた。人々はダゴンを持ち上げ、元の場所に据えた。
この後ペリシテ人は「神の箱」をいろいろの場所に移すのですがそれぞれの地において災難が続き、彼らは7か月後に賠償の捧げものと共にイスラエルに送り返したのです。サムエル記上6章です。続く7章によれば、「神の箱」はその後20年間アビナダブの息子エルアザルによって守られました。ちなみに9章ではサウルがエルサレム初代の王に選ばれ、16章でエッサイの子ダビデがサムエルによって油注がれ、ダビデが巨人ゴリアトを倒したのが17章です。そしてイスラエルの王となったダビデが、「神の箱」をエルサレムに運び上げようとしたのが、今日与えられたサムエル記下6章なのです。彼は神が20年間アビナダブを祝福し続けたことから、その祝福を首都であるエルサレムからイスラエル全土に行きわたらせたいと思いました。6章4節 4 彼らは丘の上のアビナダブの家から神の箱を載せた車を運び出し、アフヨは箱の前を進んだ。5 ダビデとイスラエルの家は皆、主の御前で糸杉の楽器、竪琴、琴、太鼓、鈴、シンバルを奏でた。この一大パレードはまたダビデ王の権勢を示すものでした。
しかし、ここで事件が発生します。6節7節 6 一行がナコンの麦打ち場にさしかかったとき、牛がよろめいたので、ウザは神の箱の方に手を伸ばし、箱を押さえた。7 ウザに対して主は怒りを発し、この過失のゆえに神はその場で彼を打たれた。ウザは神の箱の傍らで死んだ。人が「神の箱」に触れることは許されません。この時、思わず触れてしまったウザは神の怒りによって死にました。これによってダビデ王の権勢を示すパレードは中止。8節にダビデも怒った とあります。晴れがましいパレードが中止になって王としての面子がつぶされたことに怒りました。同時に彼は「神の箱」の威力を恐れ、ダビデの町と呼ばれます、エルサレムへ運び入れることをあきらめ、オベド・エドムの家へと向かわせたのです。11節は、11 三か月の間、主の箱はガト人オベド・エドムの家にあった。主はオベド・エドムとその家の者一同を祝福された。12節では主がガト人オベド・エドムの家を祝福されたと聞いたダビデは、神の怒りが解けたことを知り、再び「神の箱」をエルサレムに招きれようとします。そして13節13 主の箱を担ぐ者が六歩進んだとき、ダビデは肥えた雄牛をいけにえとしてささげた。今度は箱に取り付けられている金のリングに棒を通して直接触れることのない正しい運び方をしました。そして、ほんの少し進んでみることで、神の怒りが収まったかを確かめたのです。大丈夫と言うことでダビデは捧げものをし、その喜びを大いに表しました。15節15 ダビデとイスラエルの家はこぞって喜びの叫びをあげ、角笛を吹き鳴らして、主の箱を運び上げた。のであります。
ここまで本日の聖書箇所を追ってきましたが、ではこの出来事は今日の私たちにとってどんな意味があるのでしょうか。先ほど「聖なる、聖なる、聖なる主よ」と讃美歌351番を賛美しました。主なる神が聖なる方であられることは、ウザが神の箱の傍らで死んだ3000年前も、主イエスが十字架への道を歩まれた2000年前も、そして今日も全く変わりません。ウザは神の言いつけに従わなかったが故に、すなわち罪を犯したが故に、神の裁きを受けました。いつの世にあっても罪人が神に近づき、神を見、神に触れることは許されません。それは死を意味するのです。神様は完璧を求められる方です。今日の私たちのヒューマニズムに根差した感覚からすれば、大変厳しい方であり、冷酷で残忍ですらあります。神の箱が台車から落ちそうになったのを支えるために、思わず触れてしまったウザは神の箱の傍らで死んだ のです。
現代の私たちが描く神の像は、寛大な方であり、どんな生き方や態度をとろうが、何をしても愛ゆえに赦してくださる。無原則に赦して下さる情にもろい方、そんな理解はないでしょうか。主なる神はモーセに言われました。(出エジプト)33:19 主は言われた。「わたしはあなたの前にすべてのわたしの善い賜物を通らせ、あなたの前に主という名を宣言する。わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ。」33:20 また言われた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」
私たちは、今全能の神の前に出て礼拝を捧げています。司会を務めます長老、奏楽者、聖餐式や献金の奉仕者、私はみ言葉に仕えます。それだけではありません。教会の掃除、看板の準備、その他様々な礼拝の準備。CSでの奉仕、他にも多くの奉仕をしてくださっています。福音を多くの人に届ける伝道と言う奉仕を忘れてはいけません。時間や労力やお金や物や知恵を献げます。これらすべては、「私がやってあげる」、ではなく「喜んでさせていただく」であることは、いまさら言う必要がないこでありましょう。
しかし、サムエル記下6章8節にはダビデも怒った。とあります。自分は神様を敬いイスラエル国家の中心にお納めするために「神の箱」を運び上げようとしているのだ。しかし、あなたはウザを打たれることで、このはれがましいパレードをぶち壊された。聖なる神はウザにいかり、ダビデは神に怒ったのです。自分の思い描いた「神を敬い大切に大切にする計画」が台無しになった時、その怒りは神に向かいました。私たちが神様に真剣な礼拝を捧げる思いから、例えば「礼拝はこの様に守らなければいけない、我々はこうやって来たのだから。」と主張することがあるかも知れません。私が赴任した3年前、山形六日町教会は讃美歌21を使用していました。切り替えた時には、おそらく自分が最初に接した1954年版讃美歌に対する愛着は強く違和感があったに違いありません。しかし、先輩たちは個人として古い讃美歌を大切にしつつも、あたらしい方の集う礼拝では讃美歌21に切り替えたのでありましょう。自分の思いは時として曲げる必要があるのです。
私たちは神を箱の中に閉じ込めておくことはできません。神が何時、何をどの様になさるのか、私たちはそれを完全に知ることはできないのです。先ほどお読みしたモーセへの言葉 わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ。神は常に絶対的に聖なるお方なのです。これは、今日においても真実です。
しかし、私たちにはもう一つ、2000年前に神がなさった事実を知っています。それは、神が地上に来られたことです。人の姿をとって来られました。全能にして聖なる神がまったく人の姿でこの世に来られたのです。これが全き神であり、同時に全き人であられる主イエス・キリストです。私たちは主イエスに近づき、顔を仰ぎ見、その手に触れることが出来るのです。主イエスは子どもたちを抱きしめ、私たちの足を洗って下さるのです。そして天におられる聖なる神のことを私たちも「父」と呼ぶことを許して下さるのです。
しかし、私たち罪人は神のいらっしゃる所に行き、神を直接見て触れるならば死をまぬかれることは出来ません。罪のないものにだけにそれは許されるからです。この事実は現在も変わっていないのです。そんな私たちに、イエス様はおっしゃいます。「私はあなたのすべての罪をこの身に引き受けてあなたが受けなければならない罰を受ける。だからあなたはもはや神に顔と顔を合わせてお会いする時に、その罪によって死ぬことは無いにおだ。なぜなら罪を抱えたあなたの支払うべきものは全て私が支払ったのだから。」新しい「神の箱」、それは私たちのこの体です。中にあるものは十戒の刻まれた板やマンナの入った金のツボでもアロンの杖でもありません。主イエスが遣わして下さった聖霊です。私たちがどこに行こうとも聖霊を収めたこの「神の箱」はいっしょです。私たちがどんな人生を送ろうともこの「神の箱」は私たちと一緒です。マタイによる福音書は「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」復活された主イエスのこの言葉で終わっているのです。
これから私たちはマンナをいただきます。主の体としていただく聖餐のパンです。荒野でイスラエルの人々をやしなったマンナは今の私たちにとって目に見える霊的な糧である聖餐のパンです。アロンの家系は祭司となり犠牲をささげて神を慰める仲立ちをしました。主イエスは大祭司としてご自身を捧げて下さいました。私たちの救いの為に、アロンの杖はもはや必要ありません。最後に残ったのが十戒です。先ほど司会者に読んでいただいたローマの信徒への手紙4章15節でパウロは、15 実に、律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違犯もありません。律法は聖なるものです、主イエスは、5:17 「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。5:18 はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。(マタイ福音書)この様におっしゃいました。今や律法はそれを守れば救われるのではなく、キリストに従うことによってすなわち信仰によって罪から救われた者が、感謝の応答として実践していくものなのです。「神の箱」に入っていた3つの物は聖なる神、力ある神、そして真の神の愛を象徴するものでありましたが、今やそれら全てが主イエス・キリストの十字架における愛によって私たちに示され、新しい「神の箱」、わたしたちのこの肉体に宿って下さる聖霊なのです。わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ。この様におっしゃる神の御心、すなわちウザの死の意味をダビデは完全には理解できませんでした。しかし神に立ち返った彼は14節14 主の御前でダビデは力のかぎり踊った。にです。全身で神をたたえ喜びを表したのです。
本日は主のご受難、私たちの為に十字架の道を歩んでくださった主のご受難を覚えるレント第1週の礼拝を守っています。私たちに起こることは全て神様のご計画の内にありますが、おそらくその意味を100%理解することは出来ないでありましょう。
しかし、私たちは問われるのです。聖なる神に問われるのです。「新しい神の箱」としてくださると言う、わたしたちの存在自体の中に、主イエスを喜んでお迎えするのか、あるいはお迎えしないのか? これは厳しい問いです。この後、讃美歌459「飼い主わが主よ」を賛美します。これは私たちの祈りの言葉です。大きな賛美の声をもって「我らは主のもの、ただ主を愛す」この様に神の問にお答えしたいと思います。讃美歌の最後にあります「アーメン」は「その通りです」と言う同意を表す言葉です。今日はこの「アーメン」を付けて賛美しましょう。そして、ご一緒に主の聖餐の食卓につきたいと思います。祈ります。