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山形六日町教会

2017年2月26日

聖書:詩編44編24~27節 ルカによる福音書12章1~7節
説教シリーズ ルカ福音書-64「恐れるな」波多野保夫牧師

本日与えられましたルカによる福音書12章1節以下には「偽善に気をつけさせる」との小見出しが付けられています。先立ちます11章37節以下で主イエスは、ファリサイ派の人々と律法学者たちを徹底的に非難されました。39節 11:39 主は言われた。「実に、あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。46節 11:46 イエスは言われた。「あなたたち律法の専門家も不幸だ。人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとしないからだ。
52節 11:52 あなたたち律法の専門家は不幸だ。知識の鍵を取り上げ、自分が入らないばかりか、入ろうとする人々をも妨げてきたからだ。」彼らの行い、愛に欠ける行いを徹底的に非難されたのです。
その結果が53節54節。11:53 イエスがそこを出て行かれると、律法学者やファリサイ派の人々は激しい敵意を抱き、いろいろの問題でイエスに質問を浴びせ始め、11:54 何か言葉じりをとらえようとねらっていた。主イエスはこの時イスラエルの首都であり、ダビデの町と呼ばれていましたエルサレムへと向かっておられました。それまでのガリラヤ地方での宣教は順調に推移しましたので、この時期は「ガリラヤの春」と呼ばれています。
しかし、既に読んで来ました、ルカによる福音書9章51節にはこのようにありました。 9:51 イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。この時既に十字架への道を歩まれ始めていたのです。
12章1節 12:1 とかくするうちに、数えきれないほどの群衆が集まって来て、足を踏み合うほどになった。イエスは、まず弟子たちに話し始められた。ご自分に与えられた時間はもうあまり残っていない。しかし、自分の後を託す12人の弟子たちはまだ未熟なままなのだ。誰が一番偉いか言い争ったり(ルカ9:46)自分の十字架における死と3日目の復活について聖書に書いてあることを語っても理解しない。(ルカ18:31-34)数えきれないほどの群衆が集まって来たことは、弟子たちをうぬぼれさせ、その判断力を奪うに十分なことでありました。イエスは、まず弟子たちに話し始められた。 神様のお考えを理解出来ない弟子たち、その弟子たちに我慢に我慢を重ねて辛抱強く教え導かれるイエス様。この聖書の箇所に来ると、辛抱強く教え導いて下さっているイエス様の姿に思い至るのは私だけでしょうか?「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい。それは偽善である。」「偽善」の意味を辞書で調べますと、「外面的には善い行為に見えても、それが本心や良心からではなく、虚栄心や利己心などから行われる事を指している。腹黒いやゴマすりや食わせ物という表現もある。」このようにありました。新約聖書原典が書かれていますギリシャ語の語源は、仮面をつけて演劇を演じることを意味しました。ルカ福音書11章での主イエスの激しい批判は、心では自分の利益を追い求めているのに、あたかも神に忠実であるように振る舞うファリサイ派の態度を偽善と言われたのです。
しかし、偽善が仮面をつけて演じること、すなわち実際と異なるように振る舞うことだとすれば、そこには2種類の偽善が存在することに注意したいと思います。一つは、実際自分が大切にしているものは、自分や家族や身近な人の幸せであったり、金儲けであったりするのに、クリスチャンのふりをすることです。さらに他人の不信仰を指摘するにはやたらに鋭かったとすれば、これはファリサイ派に違いありません。もう一つは、あたかもクリスチャンではないように振る舞うことです。ペトロは鶏がなく前に3度主イエスを知らないと言いました。実際には両方の性質が混じっていたり、都合の良いように変化したりするのかも知れません。いずれにしろ仮面をつけたクリスチャンは全く無意味です。弱さのゆえに社会にあってはある程度の仮面が必要だとしても、主にある兄弟が主イエスの名のもとに集う教会に在っては、仮面を外しましょう。そして深呼吸をしてみましょう。新鮮な空気、これは聖霊ですが、わたしたちの内側を満たしてくれるのです。
私は会社に勤務していた時「隠れクリスチャン」だったと申し上げました。クリスチャンと言うと何か品行方正で立派な人と言うイメージが先行する中、そのことと自分のギャップが重荷で、ほとんどクリスチャンであることを言い表しませんでした。日曜ごとの礼拝を欠かすことはほとんどありませんでしたが、仮面をつけていたのです。「隠れキリシタン」との表現が、迫害の中で信仰を守り通した方々に失礼なことは自覚しています。12章2節3節 12:2 覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない。12:3 だから、あなたがたが暗闇で言ったことはみな、明るみで聞かれ、奥の間で耳にささやいたことは、屋根の上で言い広められる。」仮面をつけていてもムダだ。そんなもので人の本性は隠せない。もちろん神様に対して自分の本性を仮面の下に隠したところで、全くムダです。神様は全てのことをご存じだからです。では、人に対してはどうなのでしょうか?
最近では個人情報の管理がうるさく言われますから、従来気軽に発行されていました名簿が消えて行っています。確かに悪用されることが増えたから致し方ないことなのですが、同時に人と人との関係が希薄になっていく様に思われます。そんな中にあって、私たちが地の塩であり世の光であることがますます求められる時代なのではないでしょうか。
少し話は違いますが、皆さんにも隠したいこと、知られたくないことはあるのではないでしょうか。私も思い出しては、「あの時にあんなことしなければよかった。」と思うことがあり一人で顔を赤らめたりします。世間には「真実を墓場まで持っていく。」と言う言葉もありますが、どこに持っていこうが神様は全てをご存じなのです。隠しておきたいことが知れ渡ってしまう。最終的にすべてが知れ渡るのは終末の日においてなのでしょうが、秘密が知られてしまうことは往々にして起こります。それが自分の良い行いの場合もあるでしょうが、多くは悪い行いの場合でしょう。
さらには間違って伝わる。いわゆる噂話もあります。残念ながら噂話がもたらす悲劇は教会とも無縁ではありません。しかし、友を案じて様子を尋ね合うことと噂話は全く違います。それは祈りを伴うかどうかの違いです。12章4節以下には 「恐るべき者」と言う小見出しが付けられていますが、12:4 友人であるあなたがたに言っておく。この様に語り始めておられます。直接的には弟子たちに、師すなわち先生としてではなく友人としていうのだと語られたのですが、ヨハネ福音書15章では、私は真のブドウの木であり私につながっている人は豊かに身を結ぶのだとおっしゃった後、もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。 このように言われています。キリストに繋がっている私たちクリスチャンを友と呼び忠告してくださっているのが4節5節です。12:4 「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。12:5 だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい。
日本語のオソレルには「怖がる、ビクビクする」といった意味と「神を畏れる、敬って身を慎むとか、かしこまる」といった2つの意味があり異なった漢字が当てられます。4節が人の力を怖がることであり、5節は神を敬って身を慎むことでしょう。しかし、ギリシャ語の聖書原典では同じ単語が用いられています。これは2種類のオソレに重なる部分があることを意味しています。チョット不思議に思って考えてみました。両方のオソレに共通するものがあるはずですが、それは「未知、あるいは知らない」と言うことではないでしょうか。4節では自分を傷つける者、生命の危険をもたらすような者には、それこそ何をしでかすのかわからない不気味さを感じます。さらに死後の世界を体験した者は一人もいません。未知のもたらす恐怖です。5節では正に神への畏敬の念ですが、そこにも「未知」の恐怖はあり得るのです。
先ほど読んでいただいた詩編44編は、イスラエルが闘いに敗れた時に歌われたものです。44:24 主よ、奮い立ってください。なぜ、眠っておられるのですか。25節にも44:25 なぜ、御顔を隠しておられるのですか。とあり、ここで「なぜ」と問うのは、神の恵みの下にあるはずのイスラエルが敵に敗れた、その理由がわからないからです。詩編44編27節 44:27 立ち上がって、我らをお助けください。我らを贖い、あなたの慈しみを表してください。 そこには悲痛な叫びがあります。
しかし、主イエスはおっしゃいます。12章6節7節、この2節には今まで述べて来たことの結論がありますので丁寧に読みましょう。
12:6 五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。12:7 それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」まず五羽の雀が二アサリオンで売られている です。当時、雀は食料であるだけでなく、貧しくて神殿に羊やヤギを献げることが出来ない人たちが献げものとして用いたそうです。1アサリオンは今日では300円程ですから1羽120円、神殿への献げものとしては安価なものでした。私は子供のころ「神の毛の数を数えたら博士になれる」この様に聞いたのですが、数えるのには失敗しました。今日では、個人差が大きいものの、ブロンドで14万本、赤毛が9万本、日本人では10万本だそうです。ただしこれはあくまでも平均です。価値の低い雀や髪の毛1本1本と言う仔細なことにでも神様は注意を払って下さるのだ。 「あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっているではないか。そんなあなた方一人一人に神様はいつも気を配り、注目していて下さる。だから、恐れるな。」
以前、マザーテレサの「愛の反対は憎しみではなく無関心です。」との言葉を紹介しました。孤独、自分が忘れ去られていることの残酷さを彼女は語ったのです。この言葉をさらに解釈すれば、「愛」とは「交わり」だと読み込むことが出来ます。
皆さんは教会にあっていつも祈られています。木曜日の「聖書に聞き、祈る会」では、六日町教会の祈り、他教会の為の祈り、個人的に祈ってほしい関心事の3つについて、まず祈りの課題を出し合ってその日の司会者が祈りの担当を決めて順に祈ります。この祈りには、礼拝に出ることが困難な方について主の執り成しを必ず祈るのです。ですから礼拝出席がかなわない時、どうぞ教会のため、また友の為に祈って下さい。これはキリストを仲立ちとした主の兄弟姉妹の交わりなのです。「聖書に聞き、祈る会」は、まさにみ言葉の学びと祈りの素晴らしいひと時ですので、さらに多くの方に参加いただきたいと思います。なお、この会においてもパスありですから、祈りも発言も強制されることはありません。安心して出席してください。
さて、私たちクリスチャンです。先ほど「神様は一人一人にいつも気を配り、注目していて下さる。」このように申しました。これは真実です。しかし神様は正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださいますから、世の人々に起こることは私たちにも起こります。クリスチャンであっても、病気もすれば怪我もします。仕事の問題が起きたり、あるいは仕事を失うこともあるでしょう。家庭内の問題も起こり得ますし、年も取ります。そして世の人々と同じように私たちもやがては死にます。これらのことに悩んだ時に「神様、私をもっと愛して私の望みをかなえて下さい。神様、私をもっと愛して苦しみ悲しみを軽くしてください、取り去って下さい。」と祈る。大変自然な祈りですし、このように祈るべきでしょう。
祈りはそのまま聞き届けられることもあれば、違った答えが示されることもあります。そして、その答えの意味がすぐに理解できないこともあるのです。使徒パウロは、「13:12 わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。13:13 それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」このようにいいます。(コリントの信徒への手紙Ⅰ13章)
私たちクリスチャンにも神様の御心がおぼろげにしか見えない時は多いのであり、はっきりとそれがわかるのは主イエスが再びこの世に来られ、悪を完全に滅ぼす時、聖書では終わりの時とか裁きの時と呼ばれる終末の時においてなのです。先ほど12章2節を読みました、12:2 覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない。 完全に神の御心を知ることが出来るのは終末の時まで待たなければなりません。終末とは世の全てのもの、神様が創られたすべてのものが、神様の完全な支配のもとに置かれる時です。神の完全な支配がなされる場所は、神の国と呼ばれます。主イエスはおっしゃいます。ルカによる福音書10章9節 『神の国はあなたがたに近づいた』 ルカによる福音書 17章21節 実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。
終末の時はまだ来ていません。しかし、その先駆けとして既に神の国が地上に到来している。それが、主イエスを頭とする教会なのです。だから、教会にはパウロの言っていることが実現するのです。しているのです。信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。 
先ほど、マザーテレサの言葉を、『「愛」とは「交わり」だ』と読み替えました。教会には神との交わりがあります。罪人である私たちに神との交わりを回復してくださった、それが主イエスの十字架です。
隣人を愛することの原点は隣人と交わることです。教会には主の兄弟姉妹として祈り合う交わりがあります。私はこのように言っています。「礼拝を休んではいけないとは言いません。礼拝を休むと損ですよ。」主イエスが共にいて下さることを強く感じる礼拝を休むのは大損です。しかし、出席がかなわない方の為に、礼拝の中で、あるいは様々な教会の集いの中で祈るのです。
私たちは礼拝が終わると教会からこの世へと派遣されます。素晴らしい主の福音を分かち合うためです。生活の中で陰に陽に福音の喜びを感謝し語り表現します。しかし、そこには多くの困難があるでしょう。主はおっしゃいます。ルカによる福音書21章17節以下です。 21:17 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。18 しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。19 忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。確かにクリスチャンの日々の生活の中には喜びもあれば苦しみ悲しみもあります。これが現実です。しかし、そんな時に聞こえる主の言葉があります。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。死をも滅ばされる畏るべき神は、全てのことを愛をもって受け止めて下さる方です。私たち全ての者はその愛の中に生かされていることを感謝し、喜びを多くの方と共にしたいと思います、分かち合いたいと思います。祈りましょう。