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山形六日町教会

2017年2月19日

聖書:箴言3章13~23節 ルカによる福音書11章45~54節
説教シリーズ ルカ福音書-63「責任を問われる」波多野保夫牧師

ルカ福音書シリーズも63回になりました。半分を過ぎたところでしょうか。主イエスの豊かな教えと生涯を私たちに伝えてくれます。著者のルカは主イエスの直接の弟子ではなくコロサイの信徒への手紙によれば、使徒パウロの伝道旅行に同行した医者でありました。使徒パウロが紀元60年代にローマで殉教した後、80年代になって、パレスチナ各地で取材した主イエスに関する言い伝えを書きとどめ編纂しました。言い伝えと言いましても当時は、直接主イエスにお会いしたり十字架の場面に立ち会った人も存命だったはずですし、初代教会の中に主イエスの地上での活動が生き生きと語り継がれていました。さらに彼はマルコによる福音書を手にすることが出来ました。今日の私たちにとって、主イエスの生涯を生き生きと語るルカ福音書の存在はかけがえの無いものとなっています。 そして、少しずつ視点の異なる4つの福音書が全体として3次元カメラのように、主イエスの立体像を明らかにしてくれます。このこと自体をとっても、全てが神様のご計画の中に置かれているのだと思う次第です。
本日み言葉を聞きます12章45節は先立ちます37節以下とともに。「ファリサイ派の人々と律法の専門家を非難する」との小見出しが付けられていますが、主イエスがファリサイ派の人から食事の招待を受け、その席で語られた話です。彼らへの非難が44節まで続きますが、1月22日にはここからみ言葉を聞きました。一月ほどが経っていますので、復習から始めましょう。

当時のイスラエルでは政治と宗教が一体となっていましたが、その中心はイエス様の裁判が行われることになる最高法院です。多くの議席を占めていたファリサイ派は、律法の教えに忠実であろうとする真面目な集団でした。律法の基本は十戒にありますが、具体的な生活の中に生かすにあたって、次第に細かい規定が整えられていきました。成文律法と呼ばれる細かい規定が出エジプト記の後半、レビ記、民数記の後半、申命記などにあります。さらに口伝律法と言う口伝えの規定があり、ファリサイ派はこれらすべてに通じており、それを守って生活するように努力していたのです。
本日の聖書箇所では、律法学者が主イエスに激しく非難されていますが、律法学者のほとんどはファリサイ派に属し、さらに律法の教師と呼ばれる先生について、解釈や生活への応用、さらには天地創造から終末や復活に至るまで習い修めました。若いころからの研鑽は40歳くらいまで続いたのです。彼らは、最高法院に議席を与えられ、町では争いごとの裁判官も務めましたから、人々に尊敬されるとともに気位も高かったのです。44節まで続く主イエスのファリサイ派への非難に戻れば、「あなたたちは、外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。」 このように実に厳しい指摘がなされていました。
先ほどファリサイ派は宗教心が篤く熱心に律法を守ろうと務めていたと申しました。まことに結構なことです。それではなぜこれほどまで激しく彼らを非難されたのでしょうか?それは、彼らが最高法院の議員という高い地位を持って行っていること、自分たちは形式的にしか律法を守らないにも関わらず、人々には詳細な規定を設けて強制していることを非難されたのです。細かい律法の規定にがんじがらめになって神の愛と隣人への愛を見失ったファリサイ派の人々。そして守ることが出来ない人々を裁く彼らだったのです。
1月22日には「現代において、もし教会が、そしてここに集うクリスチャンである私たちが外側をきれいにする、すなわち礼拝をきちんと守り、聖書に親しみ、そして奉仕を一生懸命したり、たくさんの献げものをしたとしても、そこに隣人に対する愛、慈愛の心がなければそれらはむしろ害となります。」このように申し上げました。この時の説教題は「内側の問題」であったことを思い起こしてください。
さて、本日の聖書箇所11章45節 11:45 そこで、律法の専門家の一人が、「先生、そんなことをおっしゃれば、わたしたちをも侮辱することになります」と言った。自身もファリサイ派に属している律法学者は、イエス様が徹底的に非難されるのにたまりかねて叫んだのでしょう。「私たち律法学者は多くの人から尊敬され敬われている。最高法院でも重要な地位を得ている。そんなわたしたちを侮辱するとはなにごとだ、お前はなに様なんだ。」46節 11:46 イエスは言われた。「あなたたち律法の専門家も不幸だ。人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとしないからだ。律法には旧約聖書に書かれている成文律法、すなわち文章化された律法と共に、口伝律法、口伝えの律法があると申しました。生活の様々な場面で起きる出来事や争いに対して、成分律法を解釈してすき間を埋めるのも律法学者の役目でしたから、優れた解釈は伝えられて行きました。これらの解釈は実際の場面で用いられたのですから、聖書に書かれている成文律法よりも重んじられすらしたそうです。
そして、その解釈は神の愛を指し示すこと、すなわち新しい命を与える喜びから離れ、ただただ人を縛りつけ窒息させるものとなっていきました。「人には背負いきれない重荷を負わせながら」と指摘されています。その具体例として、11章38節で彼らが非難したイエス様が食事の前に手を洗う儀式をなさらなかったことに関しての規定です。「手を洗う儀式に使う水の量は卵の殻1個半だけです。まず殻半分の水を指先に注ぎ注がれた水が手首へと流れるようあにします。次に拳固に握った手を反対の手の平で包むように洗う。最後に手首に水を注ぎ水が指先に流れるように洗う。」このような規定でした。
イエス様の指摘の後半部分は「自分では指一本もその重荷に触れようとしないからだ。」 です。彼らは律法が禁じることを逃れる面で才能を発揮しました。安息日に旅をすることは禁止されていましたが、旅とみなされるのは家から1キロメートル以上の移動でした。そこで安息日の前日、すなわち金曜日の午後に1キロ先に2食分の食料を置いておくのです。律法学者の専門的な見解によれば食事のできる場所は自分の家と同じに見なされましたから、そこで食事をすればさらに1キロメートル先に行くことが出来るというのです。
47節48節。神に背き続けたイスラエルの歴史の中に多くの預言者が現れました。イザヤ、エレミヤ、エゼキエルなどに代表される彼らは、神の言葉、すなわちイスラエルの全ての民に、悔い改めて神に立ち返ることを求めましたが、彼らが神の言葉を聞くことはありませんでした。主イエスの時代に至るまで、神に立ち返ることは無かったのです。少し語られている言葉の説明をしておきましょう。49節に「神の知恵」とありそのあと2重かっこで『わたしは預言者や使徒たちを遣わすが、人々はその中のある者を殺し、ある者を迫害する。』と引用文であることが示されています。しかし、この言葉は旧約聖書の中には見つかりませんし、「神の知恵」と言うユダヤ教の文章があったとする説も根拠が薄弱です。しかし、歴史的にイスラエルの犯した罪をよく表しており、主イエスご自身のお考えだったのでしょう。「アベルの血」とは創世記4章が語ります、アダムとエバの息子であり土を耕す兄カインが、羊を飼う弟アベルをねたみから殺してしまった人類史上初の殺人事件です。「ザカルヤの血」とは、紀元前800年頃の南ユダ王国での出来事です。この時、ヨアシュ王は高官たちの言うことを聞き入れてしまいました。
歴代誌下24章18節から21節をお読みしますので聞いて下さい。 24:18 彼らは先祖の神、主の神殿を捨て、アシェラと偶像に仕えた。この罪悪のゆえに、神の怒りがユダとエルサレムに下った。19 彼らを主に立ち帰らせるため、預言者が次々と遣わされた。しかし、彼らは戒められても耳を貸さなかった。20 神の霊が祭司ヨヤダの子ゼカルヤを捕らえた。彼は民に向かって立ち、語った。「神はこう言われる。『なぜあなたたちは主の戒めを破るのか。あなたたちは栄えない。あなたたちが主を捨てたから、主もあなたたちを捨てる。』」21 ところが彼らは共謀し、王の命令により、主の神殿の庭でゼカルヤを石で打ち殺した。このイスラエルの先祖たちの行いを踏まえて、主イエスは律法学者に向けて強烈な非難を続けます。「そうだ。言っておくが、今の時代の者たちはその責任を問われる。」です。
ルカによる福音書11章37節から52節には、ファリサイ派と律法学者を激しく非難される主イエスの言葉が並んでいます。この姿は「子供を私の所に来させなさい」とか「姦通の現場でとらえられた女に、私も罰しない。もう罪を犯してはいけない」この様に諭された優しいイエス様のイメージ合いません。ここではなぜ、これほど強くののしられたのでしょうか。その原因はただ一つであり単純です。彼らの行っていることが神様の御心に沿わないからです。彼らが聖書に忠実であろうとする、生活の隅々においても忠実であろうとする、そのこと自体は素晴らしいことですが、問題は中身です。39節.主は言われた。「実に、あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。46節.人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとしないからだ。一言でいえば、その行いに「愛」がないのです。慈愛の欠けた行いに対して、激しく怒っておられるのです。いかがでしょうか、聖書に忠実であろうと自ら努力し、他人にもそれを求めたファリサイ派や律法学者。彼らの愚かな行動を主が厳しくとがめられる。その姿に何か心地よさを感じなかったでしょうか。食事の前に手を洗うバカげた作法や、1キロを超えての安息日の移動を可能にする姑息な手段。
そんなものは私たちには無縁です。しかし、律法が本来主張する「愛」、その「愛」を欠いた行いが主イエスによってこれほど激しく非難されるとなると、これは他人ごとではありません。
今この会堂に、聖書がかたる神の言葉に忠実でありたいと祈り願い私たちは集っているのです。ここまでの真面目さは彼らと同じです。48節 先祖は殺し、あなたたちは墓を建てているからである。私たちクリスチャンの先祖は主イエスを十字架で殺し、墓に葬りました。現在の私たちは教会を墓にしていないでしょうか。教会の中だけで主イエス・キリストとのそばらしい時間を過ごすのであれば、それはキリストを墓に閉じ込めようとしていることです。主イエスは既に墓にはおられません。福音を墓に閉じ込めておくことはできないのです。主は生きておられ、そのご命令は「あなたがたは行って、全ての民をわたしの弟子にしなさい。」なのです。もちろん、私たちは墓を大切にしますし墓前での祈祷会も毎年行います。主イエスも墓に葬られたからです。しかし、墓にとらわれてはなりません。なぜならすでにそこから復活された方を信じるからです。教会の納骨堂に「私らの国籍は天に在り」と刻まれていますが、これは諸先輩の信仰をよく表しています。 
50節 天地創造の時から流されたすべての預言者の血について、今の時代の者たちが責任を問われることになる。何か不祥事が起こった時、テレビのニュースに登場して深々と頭を下げなければならないのは、今の時代の者たち、すなわち不祥事が発覚した時の責任者であることは、これはこの世の常識です。「昔の人がやったことで、私は関係ありません。」このような言い訳は通用しません。
それでは、ここで主イエスが言われているのはそういうことなのでしょうか? 全ての預言者とありますが、王であり祭司であり預言者であられた主イエス・キリスト、その方の十字架における死に対する責任を考えましょう。主イエスを十字架に架けたのは誰なのかですが、それはなぜ主イエスの十字架が必要なのかを考えることで明らかになります。
日本基督教団信仰告白は次のように告白しています。「み子は我ら罪人のために人と成り、十字架にかかり、ひとたび己を全き犠牲(いけにえ)として神にささげ、われらの贖いとなりたまえり。」十字架は私の、そしてあなたの罪のためだ、主を十字架にかけたのは私たちだ。これが教会の信仰告白です。預言者すなわち神の御心を私たちに伝える主イエス、その十字架の血に責任を問われるのは、私でありあなたなのです。これが私たちの信仰です。本日の説教題を「責任を問われる」としました。ではどうするのか?
その回答を与えてくれる知恵、その知恵の勧めが箴言3章13節以下にあります。聞いて下さい。3:13 いかに幸いなことか 知恵に到達した人、英知を獲得した人は。14 知恵によって得るものは 銀によって得るものにまさり 彼女によって収穫するものは金にまさる。少し飛ばして18節です。18 彼女をとらえる人には、命の木となり 保つ人は幸いを得る。19 主の知恵によって地の基は据えられ 主の英知によって天は設けられた。20 主の知識によって深淵は分かたれ 雲は滴って露を置く。この素晴らしい知恵を福音と呼びます。金や銀に勝るもの、それが主の福音です。福音とはなにか? それは私たちに代わって主イエス・キリストが罪の結果としての死を負って下さった事です。

整理しましょう。今日の聖書箇所ではファリサイ派や律法学者たちが厳しく非難されています。そして53節です。彼らは激しい敵意を抱き、いろいろの問題でイエスに質問を浴びせ始め、何か言葉じりをとらえようとねらっていた。
この後しばらくして、彼らは狙い通りの結果をえます。主イエスを十字架上で殺害することに成功するのです。主イエスの死は彼らの責任です。しかし、同じ責任が2000年後の私とあなたにもあると言うのです。これはどういうことでしょうか。
一つには、もし今私が2000年前のユダヤの人々と同じ状況に置かれたとしたら、同じことをすると言う意味を持ちます。しかしそれだけではありません。激しく非難されたファリサイ派や律法学者への非難は何だったでしょうか? そうです。彼らが非難されたその原因は、隣人への愛、ひいては神を愛することが欠けている点でした。だとしたら、もし私たちの日々の生活がさらには山形六日町教会が神を愛し隣人を愛することにおいて、いささかもかけるところがあるのであれば、当然ファリサイ派や律法学者と同じように、キリストの血の責任を問われるのです。これは大変なことです。主は血の責任は、今の時代の者が問われるとおっしゃっているのです。
しかし、ここに大きな転換が起こっています。聖餐式を思い出してください。分け与えられるぶどう酒は十字架で流されたキリストの血の記念です。私たちの責任で流された血が、今愛の印の聖餐として与えられる。こんな大転換が起きているのです。その原因はなにか。それが洗礼です。キリストを自分の主とするとの信仰によって与えられる洗礼です。洗礼によって血の責任を負うべきものが血の恵みに与かる者とされます。まだ洗礼を受けていらっしゃらない求道者の方はこの大いなる恵みへと招かれているのです。
私たちの教会は、この意味においてまだ洗礼を受けてらっしゃらない方に、聖餐のパンと葡萄酒を差し上げません。しかし、一日も早く恵みの食卓を共に出来るように祈っています。キリストの愛への信頼、別の言葉でいえば信仰こそが、先ほどお読みした箴言が語る知恵で有り知識すなわち福音なのです。彼女をとらえる人には、命の木となり 保つ人は幸いを得る。祈りましょう。