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山形六日町教会

2017年2月12日

聖書:サムエル記上30章1~24節 ペトロの手紙Ⅰ2章9~10節
説教シリーズ サムエルに聞く-7「同じように分け合う」波多野保夫牧師

説教シリーズ・サムエルに聞く、第7回目になります。先週はサムエル記上27章から29章のみ言葉を聞きました。今週は続いてサムエル記30章を読み進めていきますが、物語なので長い箇所になります。23節24節だけを読んでいただきました。それに先立つ部分は説教の中でお読みしますが、まず先週の復習から始めましょう。
嫉妬に狂ったサウル王は必要にダビデを追います。27章1節。追い詰められた27:1 ダビデは心に思った。「このままではいつかサウルの手にかかるにちがいない。ペリシテの地に逃れるほかはない。そうすればサウルは、イスラエル全域でわたしを捜すことを断念するだろう。こうしてわたしは彼の手から逃れることができる。」 イスラエルの敵国ペリシテに逃げ込むとの作戦は成功し、もはやサウル王は追ってきません。ダビデは自分を受け入れてくれたペリシテのガドの王アキシュの都から離れて住み、そして王に対してはイスラエルの同胞を襲い略奪してきたとウソの報告をしながら、実際はイスラエルとペリシテ双方と対立していた部族を襲っていました。さらにそのウソが明らかにならないように皆殺しにしたのです。現代の倫理観からは大変に残酷であり許されない皆殺しや略奪についての考察をしました。当時の戦争は今でいえば一種の産業のような意味を持ちましたが、なぜ旧約聖書の時代にあって、神はイスラエル国家とその民だけを「えこひいき」なさったのでしょうか?それはまずイスラエルの人々が神に従う幸せを手にし、次にそのほかの人々が神に従うようになる、これがご計画だったからです。しかし、人の罪が神様の「愛のご計画」を阻みました。この罪の清算、そして神と人との断絶の回復の為に、主イエス・キリストの十字架が必要であり、そして私たちのこのキリスト以降の時代にあっては、日本人を含む全世界の人々は、主に従うこと、すなわち水と霊とによる洗礼によって罪赦されキリストの愛の中を生きる者とされるのです。この事実を証しして述べ伝える、そのために教会は主に仕えるのです。ダビデの作戦は大成功を収めました。イスラエルの敵を攻撃しつつ、イスラエルを攻撃したと報告しアキシュ王の信頼を勝ち得たのです。しかし、ここで大問題が生じます。アキシュ王はダビデの優秀さと忠誠を認め護衛としてイスラエルとの戦いに参戦するように求めたのです。しかしそれはペリシテの将軍たちの反対で回避できました。ここまでが27章から29章までの物語でした。しかしこの間、主とか神という言葉、あるいは祈りの言葉が全くダビデの口に上っていないことに注目しました。この時まで主への篤い信仰を度々表してきた彼の口に全く信仰の言葉がないのです。ダビデがサウル王に追い詰められた時、命の危険から敵であったペリシテの地に逃れるしか生き残れる可能性がなくなった。その時、神に頼ることをせずに、自分の才覚で事態を切り抜けていった物語なのです。
先週の説教の核心部分を繰り返します。『では、神様を見失ったダビデに対して神様はどうだったのでしょうか?彼の幼い日、まだ父エッサイのもとで羊飼いをしていた時に、神は堕落したサウル王に代わってダビデを選ばれました。預言者サムエルに命じてダビデに油を注がせたのです。これは神様の約束の印です。 サウル王の執拗な追跡によってペリシテの地に逃げ込むしかなかったダビデは、アキシュ王にすがりましが、以前は狂人のふりをして逃げ出さなければならなかったそのアキシュ王に庇護されました。アキシュ王の目の届かないツィクラグに住むことが許されました。イスラエルの敵でもあるゲシュル人、ゲゼル人、アマレク人を襲い将来、イスラエルの王になる準備をすることが出来ました。アキシュ王の護衛としてイスラエルと戦わなければならない羽目になった時、ペリシテの武将の反対でその役目を免れました。いかがでしょうか、ダビデが神様のことを忘れている間も、神様の側はその約束、サムエルに命じて王の印である油注ぎを行わせた約束をきちんと守っていらっしゃったのです。そのように思われないでしょうか?それでは、私たちの受けた油注ぎ、それは洗礼です。水と聖霊とによって授かられた洗礼です。罪赦されて神の国に入ること、すなわち永遠の命が与えられる約束です。私たちがそのことを忘れている時、この世の出来事に目を奪われている時、悲しみ苦しみ重荷に押しつぶされそうな時、あるいは豊かさに目がくらんでいる時、いかなる時にも神様の側ではチャンと約束を守って下さっているのです。 本日の説教題「わたしの僕」は27章12節でアキシュ王がダビデをそう呼んでいる言葉です。しかし、ダビデの本当の主人はアキシュ王ではありません。苦しみの中で忘れ去っている時においても愛し続けて下さる方でありました。では、私たちの主人はいったい誰なのでしょうか?』この問いをもって先週の説教を終わりました。

本日の聖書箇所、サムエル記上30章です。30:1 三日目、ダビデとその兵がツィクラグに戻る前に、アマレク人がネゲブとツィクラグに侵入した。彼らはツィクラグを攻撃して、町に火をかけ、2 そこにいた女たち、年若い者から年寄りまで、一人も殺さずに捕らえて引いて行った。3 ダビデとその兵が町に戻ってみると、町は焼け落ち、妻や息子、娘たちは連れ去られていた。4 ダビデも彼と共にいた兵士も、声をあげて泣き、ついには泣く力もなくなった。先ほどこの時代には戦争が一種の産業、すなわち富や糧を得る手段だった、と申しましたが、凄まじい時代です。ダビデ率いる軍隊がイスラエルとの戦いの為に出かけている、そのすきにツィクラグに残しておいた家族が連れ去られていたのです。6節 6 兵士は皆、息子、娘のことで悩み、ダビデを石で打ち殺そうと言い出したので、ダビデは苦しんだ。だが、ダビデはその神、主によって力を奮い起こした。あまりの衝撃に味方の兵士から打ち殺されそうになったまさにその時、ダビデはその神、主によって力を奮い起こした。のです。
ペリシテの王アキシュのもとで神を忘れていたダビデは、部下に殺されそうになる、その極限状態において主の呼びかけに気づき力を回復したのです。己の力、才覚ではどうしようもない状況においてです。祭司アビアタルに命じて「エファド」によって神の御心を問いました。エファドとは祭司の着る祭服でポケットにサイコロの様なものを忍ばせていたといわれます。ダビデは、託宣すなわち神の御心を問うたのですが、祈りをもってくじを引くことは、例えば使徒言行録で、イスカリオテのユダの代わりの使徒を選ぶ際に行われています。この科学の発達した現代においても、おみくじや星占いあるいは字画や方位などの迷信がはびこりますが、それらとの決定的な違いは、神への祈り、「御心を示してください」との祈りをもって問うた問いへの回答に服従することです。結果が気に入らないと言ってもう一度クジを引くことはいけません。あくまでも示された結果に従うのです。
さらにこの場面では祭司がかかわっているのと同じように、現代において切実な答えを求める際に牧師に相談して、いっしょに祈ることは大切です。ダビデへの神の答えは、「この略奪隊を追跡せよ。必ず追いつき、救出できる。」でした。9 ダビデと彼に従う兵六百人は出立した。ベソル川に着くと、そこで落伍者が出た。10 ダビデと四百人の兵は追跡を続けたが、二百人は疲れすぎていてベソル川を渡れなかったので、そこにとどまった。三日間毎日40キロほどの行軍に続いてこの日はさらに20キロほど進みベソル川に来た時、3分の1の兵は疲労の為に動けません。その兵士たちを置いてなお先へ進みます。ツィクラグを襲って自分たちの家族を連れ去ったアマレク人たちの奴隷になっていた男を見つけて助け、彼に案内をさせ、略奪隊を探し出すことが出来たのです。16節 アマレク人たちは、その辺り一面に広がり、ペリシテの地とユダの地から奪った戦利品がおびただしかったので、飲んだり食べたり、お祭り騒ぎをしていた。30:17 夕暮れになるとダビデは攻撃をかけ、翌日の夕方まで続けた。らくだに乗って逃げた四百人の若者を除いて、逃れた者は一人もなかった。30:18 ダビデはアマレク人が奪って行ったものをすべて取り戻し、二人の妻も救い出した。30:19 年若い者も年寄りも、息子も娘も、戦利品として奪われたものもすべて、ダビデは残らず取り返した。30:20 更に、ダビデは羊と牛をことごとく奪った。一行はこの家畜の群れを引いて行きながら、言った。「これはダビデの戦利品だ。」ここでも戦争が一種の産業だったと申し上げた状況が再現し、私たちの倫理観からは許しがたい略奪と皆殺しの世界があります。これに関して先週、旧約聖書の時代に神様がイスラエルを選んで“えこひいき”されたことと関連して次のように申し上げました。
『不平等に見えることをなさった神を批判するのではなく、全ての者を愛してくださる主イエス・キリストを与えてくださった、そのお方を賛美する。これが今私たちがこの世界に命を与えられている意味なのです。』ツィグラグに帰った時に、兵士たちは彼らの家族や財産すべてがアマレク人に奪われた衝撃から、ダビデの作戦ミスだとして彼を石で打ち殺そうとしました。ダビデは詩編に多くの歌を残していますが、この時の気持ちは次の詩に現れています。詩編25編16節から18節です。16 御顔を向けて、わたしを憐れんでください。わたしは貧しく、孤独です。17 悩む心を解き放ち 痛みからわたしを引き出してください。18 御覧ください、わたしの貧しさと労苦を。どうかわたしの罪を取り除いてください。おなじく、詩編27編13,14節です。13 わたしは信じます 命あるものの地で主の恵みを見ることを。14 主を待ち望め 雄々しくあれ、心を強くせよ。主を待ち望め。
ダビデはペリシテのアキシュ王にかくまわれている時は自分の能力や知恵に頼り、神様を忘れていました。先週の聖書箇所です。しかし自分の味方であるはずの兵士たちから石で撃ち殺されそうになった時に、神に立ち返ったのです。30章6節 6 兵士は皆、息子、娘のことで悩み、ダビデを石で打ち殺そうと言い出したので、ダビデは苦しんだ。だが、ダビデはその神、主によって力を奮い起こした。自分の才覚におぼれていたダビデは、神よって目覚めを与えられ、神に従う力を取り戻しました。彼は神に尋ね、そして「追跡せよ。必ず追いつき、救出できる。」このみ言葉に従順でした。そして兵士たちの歓喜の声がとどろいたのです。「これはダビデの戦利品だ。」との叫びです。まさにダビデはその神、主によって力を奮い起こした。のであります。彼が主に立ち返ったことは、次の出来事によってさらに明らかになります。家族たちを解放し戦利品を持って、ベソル川で脱落した兵士たちのもとに戻った時のことです。22節 22 ダビデに従って行った者の中には、悪意を持つならず者がいて、言った。「彼らは我々と共に行かなかったのだ。我々が取り戻した戦利品を与える必要はない。ただ妻と子供を受け取り、連れて行くがよい。」23 しかし、ダビデは言った。「兄弟たちよ、主が与えてくださったものをそのようにしてはいけない。我々を守ってくださったのは主であり、襲って来たあの略奪隊を我々の手に渡されたのは主なのだ。24 誰がこのことについてあなたたちに同意するだろう。荷物のそばにとどまっていた者の取り分は、戦いに出て行った者の取り分と同じでなければならない。皆、同じように分け合うのだ。」ダビデが完全に主に立ち返っていることがわかります。「兄弟たちよ、主が与えてくださったものをそのようにしてはいけない。我々を守ってくださったのは主であり、襲って来たあの略奪隊を我々の手に渡されたのは主なのだ。
先週の説教は『私たちの主人はいったい誰なのか?』この問いで終わりました。この問いをさらに一歩進めるならば、『私たちの力を奮い起こして下さるのはどなたなのですか?』このようになります。新約聖書ペトロの手紙2章9節以下を読んでいただきましたが、少し前の3節から私たちクリスチャンに向けて語られている言葉をお読みします。2:3 あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。4 この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。5 あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。そして9節10節です。2:9 しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。10 あなたがたは、「かつては神の民ではなかったが、 今は神の民であり、 憐れみを受けなかったが、今は憐れみを受けている」のです。
本日の説教題を「同じように分け合う」といたしました。ダビデに従ったものも従い得なかったものも、分け隔てなく分け合ったもの、それはアマレク人から奪い取った羊や牛などの戦利品でした。先週の説教の最後で『私たちの主人はいったい誰なのでしょうか?』このように問いましたが、答えは主イエス・キリストですね。私たちが主からいただいている多くの賜物を教会で家庭で学校で、さらに社会で分かち合う、あるいは奉仕する。素晴らしいことですし必要なことです。しかし、主イエスが悪魔との戦いに勝利された際の戦利品。罪との戦いに勝利された主イエスの戦利品は「永遠の命」です。私たちクリスチャンは既にその戦利品・「永遠の命を」分け与えられています。そして私たちが分けていただいた戦利品を「同じように分け合う」、この仕事は教会にそしてクリスチャン一人一人に委ねられています。これが伝道です。もし、主イエスがその命を持って獲得された戦利品を私たちだけが独占するのならば、すなわち主の福音を私たちだけに留めておくならば、サムエル記上30章22節に習って言えば 「イエスに従って行った者の中には、悪意を持つならず者がいた。」このように言われかねないのです。
ダビデはペリシテに逃亡した際に主なる神を忘れました。ペテロの手紙10章1節 10 あなたがたは、「かつては神の民ではなかったが、今は神の民であり、 憐れみを受けなかったが、今は憐れみを受けている」のです。これが今のわたしたちクリスチャンで有り、まだ洗礼を受けていらっしゃらない方、求道者の方はこの豊かな主の憐れみへと招かれているのです。
説教を準備する中でこの後の讃美歌を451番に変更させていただきました。作詞者のジョン・ニュートンは奴隷船の船長から英国国教会、聖公会ですね、そこの牧師になり奴隷制廃止の為に戦うという数奇な人生を送りました。大変に有名な讃美歌であり、主に立ち返ったダビデに、ペトロの手紙を受け取った苦しみの中にある初代教会に、もちろんジョン・ニュートンに、そして何よりも私たちに、神様が日々注いでくださる大いなる恵みと憐みを思いおこさせてくれる賛美です。この賛美を口ずさみながら、喜んで主に仕え「同じように分け合う」そのための日々でありたいと思います。祈りましょう。