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山形六日町教会

2017年2月5日

聖書:サムエル記上27章1~28章2節 ヨハネによる福音書5章35~40節
説教シリーズ サムエルに聞く-6「わたしの僕」波多野保夫牧師

説教シリーズ・サムエルに聞くの第6回目になります。このシリーズでは上下に渡りますサムエル記を読み進めていますが、預言者サムエルはサムエル記上25章1節でその死の事実だけが短く語られ、28章3節で同じく事実だけが繰り返されています。お気づきのようにサムエル記はダビデ王の一代記と言った方が正確な物語です。ダビデの生涯にわたって経験した様々な難敵、それはペリシテの巨人ゴリアトに立ち向かうことから始まりましたが、これは私たちの人生で出会う数々の難敵にどのように対処すべきかを語っています。週報には全体の聖書箇所を28章2節までとカッコつきで記しましたので、全体で十数回のシリーズを予定していますが、今回から司式をしてくださる長老さんに朗読していただく聖書箇所を短くしました。ダビデの遭遇した出来事が物語として語られるため一回の聖書箇所が長くなります。中心部分だけを読んでいただき、全体は説教の中で触れることとしました。参考になさってください。

ペリシテの巨人ゴリアトを石投げ紐ひとつで倒してからサウル王に召し抱えられたダビデは、連戦連勝。町の人々は 楽を奏し、歌い交わした。「サウルは千を討ち/ダビデは万を討った。」18:8 サウルはこれを聞いて激怒し、悔しがって言った。「ダビデには万、わたしには千。あとは、王位を与えるだけか。」18:9 この日以来、サウルはダビデをねたみの目で見るようになった。嫉妬に狂うようになったサウル王はダビデを殺そうとします。サウル王の長男ヨナタンとの友情によって王のもとを逃げ出すことが出来たダビデ。しかし追手は執拗に追いかけ迫ってきます。そのような中ダビデにとってまたとないチャンス、サウル王を殺害するチャンスが少なくとも2度ありました。王が用を足すために一人で洞窟に入って来た時と、宵闇に紛れサウル王の陣営に近づき枕元にまで忍び込んだ時でした。しかし彼は、次のように述べています。「主は生きておられる。主がサウルを打たれるだろう。時が来て死ぬか、戦に出て殺されるかだ。26:11 主が油を注がれた方に、わたしが手をかけることを主は決してお許しにならない。今は、枕もとの槍と水差しを取って立ち去ろう。」しかし嫉妬に狂うサウル王はダビデの追跡をやめません。
本日の聖書箇所27章1節以下です。27:1 ダビデは心に思った。「このままではいつかサウルの手にかかるにちがいない。ペリシテの地に逃れるほかはない。そうすればサウルは、イスラエル全域でわたしを捜すことを断念するだろう。こうしてわたしは彼の手から逃れることができる。」2 ダビデは立って、彼に従う兵六百人と共に、ガトの王、マオクの子アキシュのもとに移って行った。3 ダビデとその兵はおのおのの家族と共にガトのアキシュのもとに身を寄せた。ダビデは二人の妻、イズレエルのアヒノアムとカルメルのナバルの妻であったアビガイルを連れていた。あまりに執拗なサウル王の追跡に対する恐怖と荒野を逃げ回ることに疲れたダビデは生き延びる希望を失いかけていました。彼は現実を見つめたに違いありません。イスラエルの地に留まればやがてはサウル王の追手につかまり殺されます。これはもう時間の問題です。人心を失いかけているとは言え、相手は王です。確実につかまります。
残るはペリシテの地です。サムエル記上21章11節以下によれば、以前にもダビデはサウルの手から逃れペリシテのガドの王アキシュの下へ行っています。その時には自分が何者であるかを知られ窮地に追い込まれました。21:14 そこで彼は、人々の前で変わったふるまいをした。彼らに捕らえられると、気が狂ったのだと見せかけ、ひげによだれを垂らしたり、城門の扉をかきむしったりした。21:15 アキシュは家臣に言った。「見てみろ、この男は気が狂っている。なぜ連れて来たのだ。21:16 わたしのもとに気の狂った者が不足しているとでもいうのか。わたしの前で狂態を見せようとして連れて来たのか。この男をわたしの家に入れようというのか。」時が経って再び追い詰められたダビデの下した結論は、わずかな望みをいだいてペリシテの地に逃れることでした。しかし、今回はガトの王アキシュから厚くもてなされ、家族や従う者達の住む土地がツェケラグに与えられたのです。このツェケラグはアキシュの町からも、サウロ王の領地からも離れていましたから、ダビデにとっては大変に好都合な場所だったのです。彼はその地に一年と四カ月滞在することになりましたが、4 ダビデがガトに逃げたと聞いたサウルは、二度とダビデを追跡しなかった。これはペリシテとの力関係からして当然のことでした。
27章8節以下には戦いの話が続きます。しかもわたしたち現代人の感覚からすれば、略奪や皆殺しなど残忍な話が続いています。当時の戦争は今でいえば一種の産業のような意味を持ちました。戦いに勝てば占領した地域の全ての富を所有できますし、捕まえた住民は奴隷として貴重な労働力になるのです。そのような時代ですから、以前預言者サムエルの反対にもかかわらず、イスラエルの人々が王様を与えて欲しいと願い、周辺国の様に強い国となることを望んだのももっともなことでありました。
しかし、なぜ神は旧約聖書の時代には、イスラエル国家とその民を、えこひいきなさったのでしょうか? その理由はそれこそ「神のみぞ知る」なのですが、聖書全体の語るところによれば、次のように推測することが出来ます。
神が創造された全人類の祖先は、神の似姿に造られ良いものでした。しかし、彼らは禁断の木の実を食べそれをヘビのせいにするという罪を犯しました。これが人間です。やがて地上に増えていった人々は神に逆らうことばかりしていましたので、6:7 主は言われた。「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する。」6:8 しかし、ノアは主の好意を得た。ノアの洪水の物語です。そしてアブラハムが登場します。神はアブラハムを選び一方的な祝福を与え、子孫の繁栄を約束されたのです。アブラハムはユダヤ民族の祖でありその信仰の祖です。なぜ神がアブラハムの子孫を恵まれたのか?
その訳を申命記は告げます。7:6 あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。7:7 主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。7:8 ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。ただ神様の大いなる恵みによるのです。先ほど「神様の勝手でしょ」と申し上げたのは、人間の側にそれに値するものがあったのではないという意味です。
マタイによる福音書1章1節には 1:1 アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。とあります。このことは重要です。私たちのこの時代に主イエスの愛は全世界の民に及んでいるのですが、神様はまずアブラハムを選んで、神に従うことの幸いを知る民となさろうとされました。これが旧約聖書にしるされているイスラエル民族です。しかし、選ばれた彼らは罪を犯し神から離れることをやめようとしません。その罪の清算が神の一人子の十字架の出来事であり、復活は罪の赦しの輝かしいしるしです。私たちが信仰の印とする十字架にキリストの姿はありません。復活し今は神の右におられるからです。
私たちは主に招かれて礼拝を捧げる喜びが与えられています。しかしクリスチャンは日本の人口の1%以下です。私たちは自分が立派だからではなく、神様の一方的な愛によって恵みをいただいていることを忘れてはなりません。現代においても一方的な恵みによる選びは真実です。だとしたら、イスラエルを‘えこひいき’されたのが、全ての民が神の愛の中を生きるようになるための準備であったと理解されるのと同様に、たった1%のクリスチャンの群れの中に招かれていることは、神様が私たちを‘えこひいき’してくださっていることなのです。不平等に見えることをなさる神を批判するのではなく、全ての者を愛してくださる主イエスを与えてくださった方を賛美する。これが今私たちがこの世界に命を与えられている意味なのです。感謝しながら聖書を読み進めましょう。

27章8節からです。8 ダビデとその兵は上って行っては、ゲシュル人、ゲゼル人、アマレク人を襲った。昔からこれらは、シュルからエジプトの地に至る地方の住民であった。9 ダビデはこの地方を討つと、男も女も生かしておかず、羊、牛、ろば、らくだ、衣類を奪っては、アキシュのもとに戻った。10 アキシュが、「今日はどこを襲ったか」と尋ねると、ダビデは、ユダのネゲブを、エラフメエル人のネゲブを、カイン人のネゲブを、と答えた。11 ダビデは、男も女も生かしてガトに引いて来ることはなかった。「彼らが我々について、『ダビデがこうした』と通報しないように」と考えたからである。ダビデがペリシテの地に住む間、これがダビデの策であった。12 アキシュはダビデを信じて、「彼は自分の民イスラエルにすっかり嫌われたから、いつまでもわたしの僕でいるだろう」と思っていた。ここでダビデは一つの作戦を実行します。実際に彼が襲ったのは、ゲシュル人、ゲゼル人、アマレク人でした。彼らはエジプトの近くに住んでおり、ペリシテともイスラエルとも敵対関係にありました。しかし、ペリシテのアキシュ王のもとに略奪した物を差し出してダビデは、ユダのネゲブを、エラフメエル人のネゲブを、カイン人のネゲブを、と答えました。彼らはイスラエルの同胞です。ダビデはアキシュに自分の同胞を襲って略奪してきたのだとウソを言ったのです。そしてそのウソが明らかにならないようにしました。11節です。11 ダビデは、男も女も生かしてガトに引いて来ることはなかった。「彼らが我々について、『ダビデがこうした』と通報しないように」と考えたからである。ダビデがペリシテの地に住む間、これがダビデの策であった。彼はペリシテとイスラエルの共通の敵を襲い滅ぼしそして戦利品をアキシュに届け、その度に自分の同胞イスラエルの部族からの戦利品だと告げたのです。そしてそのウソが明らかにならないように皆殺しにしたと言うのです。
私たち現代人はキリストの告げる隣人愛がその倫理観の根底にありますから、ダビデの行動を非難したくなりますが、先ほど申し上げました様に、戦争が一種の産業だった時代に、それは非難されるものではありませんでした。日本においても現在の倫理観とは異なって、仇討ちや切腹が美徳でとされた時代はそう遠い昔ではありません。
聖書に戻りましょう。27章12節から28章2節です。12 アキシュはダビデを信じて、「彼は自分の民イスラエルにすっかり嫌われたから、いつまでもわたしの僕でいるだろう」と思っていた。28:1 そのころ、ペリシテ人はイスラエルと戦うために軍を集結させた。アキシュはダビデに言った。「あなたもあなたの兵もわたしと一緒に戦陣に加わることを、よく承知していてもらいたい。」2 ダビデはアキシュに答えた。「それによって、僕の働きがお分かりになるでしょう。」アキシュはダビデに言った。「それなら、常にあなたをわたしの護衛の長としよう。」ダビデの作戦は大成功を収めました。イスラエルの敵を攻撃しつつ、イスラエルを攻撃したと報告し、アキシュ王の信頼を勝ち得たのです。しかし、ここで大問題が生じます。ペリシテとサウル王が率いるイスラエルの緊張が高まり戦争が間もなく始まる。そんな時アキシュはダビデの優秀さと忠誠を認め護衛として参戦するように求めたのです。これにはさすがのダビデもあいまいな答えを返すしかありませんでした。
続くサムエル記上28章3節以下は一転して弱り切ったサウル王がペリシテに立ち向かわざるを得なくなった状況を伝え、29章は再びアキシュの陣中でのダビデに戻ります。ペリシテ軍の武将たちはアキシュと共にペリシテ軍に加わろうとしたダビデの寝返りを疑い、イスラエルとの戦いに参加することを拒否します。すっかりダビデにだまされているアキシュはダビデに言いました。29:6 「主は生きておられる。お前はまっすぐな人間だし、わたしと共に戦いに参加するのをわたしは喜んでいる。わたしのもとに来たときから今日まで、何ら悪意は見られなかった。だが、武将たちはお前を好まない。29:7 今は、平和に帰ってほしい。ペリシテの武将たちの好まないことをしてはならない。」ダビデは同胞と戦うことから逃れることが出来ました。
ここまでサムエル記上27章から29章の物語を読んできました。先ほど申しました、命の軽さと言った問題を抜きにすれば、ダビデが将来偉大な王となるその才気を感じられたのではないでしょうか。敵の懐に飛び込み庇護を受けながら将来の布石を打っていたのです。
しかし、今日お読みした27章から29章で、おかしいなと思われたことがなかったでしょうか? 実は、主とか神と言う言葉、あるいは祈りの言葉が全くダビデの口に上っていないのです。唯一29章6節で「主は生きておられる」と言っているのは、異教徒のペリシテ人アキシュなのです。先ほどサウル王の枕元に忍び込んだダビデの言葉を聞きました。彼は「26:11 主が油を注がれた方に、わたしが手をかけることを主は決してお許しにならない。主は生きておられる。主がサウルを打たれるだろう。時が来て死ぬか、戦に出て殺されるかだ。」このように裁きを神に委ねる熱い信仰を言い表していたのです。その彼が追い詰められた時、命の危険から敵であったペリシテの地に逃れるしか生き残れる可能性がなくなった時、神に頼ることをせずに、自分の才覚で事態を切り抜けていったのです。

では、その時のダビデに対して神はどうだったのでしょうか?彼の幼い日、まだ父エッサイのもとで羊飼いをしていた時に、神は堕落したサウル王に代わってダビデを選ばれました。預言者サムエルに命じてダビデに油を注がれたのです。これは神様の約束の印です。 サウル王の執拗な追跡によってペリシテの地に逃げ込むしかなかったダビデは、アキシュ王にすがりましが、以前は狂人のふりをして逃げ出さなければならなかったそのアキシュ王に庇護されました。アキシュ王の目の届かないツィクラグに住むことが許されました。イスラエルの敵でもあるゲシュル人、ゲゼル人、アマレク人を襲い将来、イスラエルの王になる準備をすることが出来ました。アキシュ王の護衛としてイスラエルと戦わなければならない羽目になった時、ペリシテの武将の反対でその役目を免れました。
いかがでしょうか、ダビデが神様のことを忘れている間も、神様の側はその約束、サムエルに命じて王の印である油注ぎを行わせた約束をきちんと守っていらっしゃったのです。そのように思われませんか?
それでは、私たちの受けた油注ぎ、それは洗礼です。聖霊と水によって授かられた洗礼です。罪赦されて神の国に入ること、すなわち永遠の命が与えられる約束です。私たちがそのことを忘れている時、この世の出来事に目を奪われている時、悲しみ苦しみ重荷に押しつぶされそうな時、あるいは豊かさに目がくらんでいる時、いかなる時にも神様の側ではチャンと約束を守っていて下さるのです。
本日の説教題「わたしの僕」は27章12節でアキシュ王がダビデをそう呼んでいる言葉です。しかし、ダビデの本当の主人はアキシュ王ではありません。 苦しみの中で忘れ去っている時においても愛し続けて下さる方でありました。では、私たちの主人はいったい誰なのでしょうか?祈りましょう。