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山形六日町教会

2017年1月29日

聖書:イザヤ書1章11~17節 ヤコブの手紙1章22~27節
説教シリーズ 教理-2「信仰によって義とされる」波多野保夫牧師

本日は1月の第五聖日に当たります。六日町教会に赴任しまして以降、クリスマスやイースターなどの時を除き、月2回はルカによる福音書を、その他の2回はキリスト者として生活する上でのテーマをとらえたみ言葉をご一緒に聞いて参りました。そして第五聖日には教理的なテーマをと以前申し上げましたが、なかなか実行できませんでした。週報に「説教シリーズ・教理2」とありますが、一回目として「罪」の問題を取り上げたのは実に2015年8月30日のことでした。まさに有言不実行だったことをお詫びします。今、教理と申し上げましたが、その正確な意味はなかなか難しく、「キリスト教の主要な教え」と言うと「では主要でない教えは?」などと言われかねません。辞書には「宗教の教えの体系」とありますが、これも「では中身は」と言うとはっきりしません。案外、「改革長老教会の伝統の中で大切にされてきました「ウエストミンスター教理問答」や「ハイデルベルク信仰問答」が語っていること」と具体的に述べた方が分かりやすいのかも知れません。私たち山形六日町教会は1887年に「一致教会山形講義所」としてスタートして以来、今年で130年になります。この間の主の導きを感謝し、今秋には記念の時を計画しております。さらに今年はもう一つ大切な節目の年、宗教改革500年の年にあたります。1517年10月31日、マルチン・ルターが当時のカトリック教会の腐敗を指摘する95か条の提題をウィッテンベルク城塞教会の扉に張り出したのがこの日でした。その後、両者の激しい戦いが始まったのですが、カトリック教会も自らの腐敗を正す、対抗宗教改革と呼ばれる改革を迅速に行いました。その改革の中で世界伝道が注目され、イエズス会という修道会が組織されて、1549年にフランシスコ・ザビエルが初めて日本にキリスト教を伝えたと記録されています。
では、なぜカトリックとプロテスタントがすぐに和解出来なかったのでしょうか?それは、カトリックが堕落するに至った点において、教理的な理解の違いが大きかったからなのです。ルターを含め彼に続く宗教改革者、ツビングリー、カルヴァン、ノックスなどが大切にした教理が3つあります。「聖書のみ」「信仰のみ」「万人祭司」です。
「聖書のみ」は神のご意思を語るのは「聖書だけ」だとの主張です。カトリック教会は、彼らの内に伝わる伝承・言い伝えも神のご意思を伝えるとしました。プロテスタントは、言い伝えという幅のあるものには、人間の意思によって左右される曖昧さが常に付きまとう、として廃しました。
「信仰のみ」は人が救われるのは「ただイエス・キリストを主と告白する信仰だけだ。」との主張です。カトリック教会は人間の良い行いも救いの条件になるとしました。もちろんプロテスタントも良い行いを否定しませんが、それは救いの条件ではなく、信仰の故に神様の示された愛への応答として行うものとしました。良い行いは、救われるか・救われないかに全く関係ないと言うのです。本日の聖書箇所はこの「信仰のみ」、説教題にはもう少し丁寧に「信仰によって義とされる」といたしました。
本題に入る前にもう一つ「万人祭司、すべての信仰者が祭司なのだ。」この教理に触れておきましょう。祭司の役目は神と人の間に立って、人の罪のために犠牲をささげ、神の赦しを請うことでした。犠牲をささげる意味では、主イエスが完全で欠けることのない贖いの捧げものとして、ご自身をささげてくださったのですから、もはや必要ありません。ヘブライの信徒への手紙7章から10章では、大祭司としてのイエス・キリストについて、詳しく述べていますので、機会をとらえてご一緒にみ言葉を聞きたいと思います。繰り返しますが、私たちが罪の赦しを得るに必要なのは「主イエス・キリストへの信仰のみ」なのです。しかし、祭司のもう一つの役目、神と人との間に立ちその責任と奉仕の使命を担う。この面でなお、すべての信仰者は祭司なのです。すなわち、執り成しの祈りを祈り、み言葉を多くの人に伝え、互いに祈り支え合い、愛の業に励むのです。ヤコブの手紙1章22節以下です。1:22 御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。1:23 御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。1:24 鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。御言葉をただ聞くだけではだめだ。良い話を聞いて感心したと言うだけではだめだ。そんなのは直ぐに忘れてしまいます。行う者となりなさい。このように、私たちクリスチャンが行動を起こすように求めます。しかし、何か違和感と言うかアレーという感覚をお持ちではないでしょうか。私はマリアとマルタの話を思い浮かべました。イエス様をもてなすために忙しく働くマルタに対して、イエス様の話に聞き入るマリア。「マリアに手伝うように言って下さい。」この様に言うマルタに主はおっしゃいました。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」(Luke10:41,42)マリアは、ただ主の足元に座ってその話に聞き入っていたのでした。
もう少し、教理的な話をしましょう。先ほど本日の説教題について「信仰によってのみ義、すなわち正しいものとされて救われる。」と申しました。使徒パウロは様々な手紙の中で述べています。お聞きください。実に、神は唯一だからです。この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです。(Rom 3:30)
このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。(Rom 5:1,2)
人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。(Gal 2:16)
こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。(Gal 3:24)
信仰義認のオンパレードです。宗教改革者達は堕落したカトリック教会が、免罪符を買う行為で救われるとしたのにプロテスト、すなわち異議を唱えたのです。
それではこのヤコブ書の言う「御言葉を行う人になりなさい。」とはなんでしょうか?その前に、少しヤコブの手紙について触れておきましょう。著者ヤコブはイエス様の兄弟ヤコブと言われています。彼はペテロに代わってエルサレム教会の指導者となりましたが、紀元62年に殉教したとされます。さらにルターはこの手紙を「藁の書」と呼びパウロ書簡に比べて軽視したと言われます。カトリック教会との戦いの中で「信仰義認」があやふやになることを嫌ったのでしょうか。本当にヤコブ書は信仰的意義の薄い「藁の書」なのでしょうか?
先週はルカ福音書11章37節から44節によってみ言葉を聞きましたが、主イエスがファリサイ派の人々を激しく非難する場面でした。彼らは一生懸命に旧約聖書を暗記するまで読み、律法を生活の基本に据えているのですが、残念ながら肝心な愛、すなわちいつくしみの心に欠けていました。律法への忠実さは周囲に向かってしまい、人を裁くものだったのです。主イエスの言葉です。「実に、あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。11:40 愚かな者たち、外側を造られた神は、内側もお造りになったではないか。11:41 ただ、器の中にある物を人に施せ。そうすれば、あなたたちにはすべてのものが清くなる。 主イエスが「人に施す」行動を求めていらっしゃることに注目しておきたいと思います。
最初に読んでいただいたイザヤ書1章11節以下は、神に従おうとしないイスラエルの人々のために、真心の伴わない礼拝において祭司たちが捧げる犠牲を拒絶なさる神の言葉です。1:11 お前たちのささげる多くのいけにえが わたしにとって何になろうか、と主は言われる。雄羊や肥えた獣の脂肪の献げ物に わたしは飽いた。雄牛、小羊、雄山羊の血をわたしは喜ばない。1:12 こうしてわたしの顔を仰ぎ見に来るが 誰がお前たちにこれらのものを求めたか わたしの庭を踏み荒らす者よ。1:13 むなしい献げ物を再び持って来るな。香の煙はわたしの忌み嫌うもの。新月祭、安息日、祝祭など 災いを伴う集いにわたしは耐ええない。真心の伴わない礼拝に対する神の激しい怒りです。さらに神は続けておっしゃいます。悪を行うことをやめ1:17 善を行うことを学び 裁きをどこまでも実行して 搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り やもめの訴えを弁護せよ。私の前で罪の赦しを請うのであれば、まず孤児ややもめを助けなさい。この様におっしゃるのです。ヤコブの手紙1章27節。1:27 父なる神のみまえに清く汚れのない信心とは、困っている孤児や、やもめを見舞い、自らは世の汚れに染まずに、身を清く保つことにほかならない。孤児ややもめを助け、身を清く保ちなさい、です。紀元前750年頃に活躍した預言者イザヤは「孤児ややもめを助けなさい」という神の言葉を伝えました。主イエスはファリサイ派の人々に器の中にある物を人に施せ。と施しの行動を求められました。エルサレム教会の責任を負っていたヤコブも困っている孤児や、やもめを見舞う行動を求めています。
使徒パウロと宗教改革者たちは、「信仰のみ」を主張し、預言者イザヤ、主イエス、主の兄弟ヤコブは「行い」を求めている。しかも主イエスはマルタに対して、ご自分の足元に座って話に聞き入るマリアを弁護して、「マリアは良い方を選んだ。」とおっしゃいました。
一体なにが正しいのでしょうか?なにを優先させるべきなのでしょうか?その答えは、みな正しいのです。ただし、それぞれが適用される場面は異なります。「救われる」すなわち罪が許されて救いに入れられるための条件は、主イエス・キリストを受け入れること。神の一人子を信じることのみです。どれだけ良い行い、すなわち善行を積んだのかは全く関係ありません。単に神様の与えて下さる恵みによって救われるのです。具体的には洗礼を受けることで表されます。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」(Rom 10:13) と聖書にあります。これが「信仰義認」です。
それでは信仰によって救われた者はどうするのでしょうか。救われた喜びは必ず行動に結びつきます。主イエスの無償の愛を感じ体験した者は、喜びの内に身を清め愛から出た施しをする者になります。ヤコブの手紙1章27節です。 1:27 みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です。行いは救いの条件ではなく、救われた者の喜びの表現なのです。ファリサイ派の人々は、生活の中で律法を守る、すなわち良い行いによって救われるとし、同様にそれを人にも求めました。確かに律法には人の行動を規制する面があります。殺しても、姦淫しても、盗んでも、偽証してもいけないのです。しかし、律法のもう一つの側面、それは信仰によって救われた者がその応答、神の愛へのお答えとして何をするのかを教えてくれるのです。神学の言葉で「律法の第三用法」と呼ばれます。例えば、「安息日を聖とする」です。私たち救われた者はその日に喜んで礼拝に集います。もちろん救いへと招かれている求道者の方も一緒に主を賛美する喜びを共にするのです。
ヤコブの手紙1章25節 1:25 しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります。預言者イザヤが「孤児ややもめの為に尽くせ」との言葉を伝えたのは、神によって特別に選ばれたイスラエルの民に対してであり、ヤコブは教会員に対して行動を促しています。現代でいえば、既に洗礼を受け救われた者へのメッセージです。その行いによって幸せになります。は、愛に根差した行いを神様が喜んでくださるからです。1:26 自分は信心深い者だと思っても、舌を制することができず、自分の心を欺くならば、そのような人の信心は無意味です。「舌を制する」、私はこの教会に就任当初から、「噂話禁止」と申し上げました。噂話が人を傷つけるからです。しかし、噂話と友を思って情報を交換することとははっきり違います。後者は必ずや祈りを伴うからです。しかし、噂話によって傷つくのは噂された方だけではなく、噂話をした方ものなのですね。その人の信心は無意味です。この様に聖書は告げるからです。

もう一度、整理しましょう。私たちは信仰によって救われます。善い行い、あるいは律法を守ることによってではありません。主イエス・キリストを罪から救って下さる唯一の方と告白する時、ただ神の哀れみによって救われます。「信仰義認」です。救われたものは喜びの内に行動するのです。イザヤがそしてヤコブが神様のお考えを伝えています。
それでは、わたしたちの人生において、主イエスが最も大切な方だと言うことをどの様にして知るのでしょうか? まず第一はマリアのとった行動です。主イエスの足元に座って話に聞き入る、これは私たちにとって礼拝です。賛美し、み言葉に聞き、祈り、ささげる。第一の行動です。
礼拝からこの世へと派遣された私たちには、主が望まれることにどれだけ忠実に生きることができるかにチャレンジします。自分のあるいは家族の人生が、この世の成功者になることであったり、健康で愉快な生活であったりすることを祈り求める。これは当然でしょう。しかし、私たちは主イエスを、自分の望みをかなえるための召使にしていないでしょうか。祈り願ったことが違う形で現実となって示された時に、なんというのでしょうか。自分だけではなく、他の人の、なかでも困難や苦しみの中にある方の回復であったり慰めであったりを祈り、その為に行動する。そういった人生はきっと輝いていることでしょう。
福音の伝道は、もちろん私たちに与えられた使命であり素晴らしい行動です。しかし、難しさがあるのも事実です。福音を伝えることを祈りつつ、人にそして社会に尽くす。その姿を主は喜んでくださいます。「あなた方は世の光である。」主イエスのみ言葉です。学校にあって、職場にあって、家庭にあって、そして地域にあって私たちは光です。真の光である主イエスを指し示す光です。「いや私が光だなんて、そんな大それた」こう言うのは、謙虚なようですが実は傲慢さが付きまといます。なぜなら神様があなたを選んでこの世の光とし、用いて下さっているからです。こんな私をも主は世の光として用いて下さる。素晴らしいことではないでしょうか。ヤコブの手紙1章22節 1:22 御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。すでに洗礼を受けていらっしゃる方も、備えの時を過ごしていらっしゃる方もご一緒に、主の愛の内を歩んで参りましょう。祈ります。