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山形六日町教会

2017年1月22日

聖書:詩編51編8~11節 ルカによる福音書11章37~44節
説教シリーズ ルカ福音書-62「内側の問題」波多野保夫牧師

日野長老に読んでいただいたルカ福音書11章37節以下には、「ファリサイ派の人々と律法の専門家とを非難する」との小見出しが付けられています。非難の言葉が54節まで、丸々1ページに渡って続きますので、2回に分けてみ言葉を聞きたいと思います。本日は44節まで、ファリサイ派に向けられた言葉を聞きます。すでに何度かお話ししましたが、主イエスが活躍された当時のユダヤでの宗教事情から始めましょう。出エジプトの出来事に始まります民族の父祖たちの信仰、唯一の神に対する信仰を守り通して来たイスラエルは、政治と宗教が一体となった国家でありました。紀元前586年のいわゆるバビロン捕囚以後、ほとんどの時代において政治的自由は諸外国によって制限されており、主イエスの時代はローマ帝国の属州と言う立場にありましが、宗教的には4つの主要なグループが存在しました。ファリサイ派、サドカイ派、エッセネ派そして熱心党です。自分がどのグループに近いのか、あるいは遠いのか、考えながら聞いて下さい。
熱心党はゼロテ党とも呼ばれ、これは「律法に熱心な者」という意味を持ちます。貧しく信仰心の篤い彼らには、ローマに税を収めたり、国勢調査に応じたり、皇帝崇拝を強制されるのは唯一の神への冒涜と映りました。ローマに対して聖戦を戦い大土地所有者から土地を取り戻し、奴隷を解放して財産を共有することを主張しました。紀元6年のガリラヤでの蜂起は、流血の内にローマ軍によって鎮圧されてしまいました。12弟子の一人に熱心党のシモンがいますが、彼が武力革命を目指していた党員であったのかは判然とません。
エッセネ派はエルサレム神殿の不信仰な祭司と袂を分かち死海のほとりの砂漠で共同生活を始めた人々です。律法を妥協の余地なく実践し厳密に祭儀を守りました。その生活は、祈り、聖書聖典の学習、財産の共有と規律を持った共同生活、手仕事、みそぎの水浴、汚れを避けた食事など厳格なものでした。紀元70年頃クムランにあった共同体がローマによって滅ぼされる直前に、ツボに入れて隠し置いた聖書聖典が1900年程の時を隔て1947年に発見された死海文書で、当時の聖書を現代に伝えるまさに人類の財産となっています。
サドカイ派です。エルサレム神殿を支配し聖職者貴族と呼ばれる大祭司や祭司長たち、経済的な実権を握る大商人や大地主など比較的少数で構成されていましたが最高法院の実権を握っていました。彼らはその地位や権力を守るためにローマと手を組んでいたのです。次に述べるファリサイ派とは激しく対立していたのですが、両派が唯一手を組んだ記事が聖書にあります。それは主イエスを有罪とするための裁判の場面です。神の一人子を十字架に架けると言う人類史上最大の犯罪行為において、両派は手を組んだのでありました。
最後になりました。11章37節 11:37 イエスはこのように話しておられたとき、ファリサイ派の人から食事の招待を受けたので、その家に入って食事の席に着かれた。ファリサイ派は信仰熱心な人々で、律法は書かれたものであれ、口伝えのものであれ熟知しており、それらの実践に努めていました。毎週金曜日には集まって食事を共にし、敬虔な時を持ったのです。神の支配をもたらすメシアの到来を待ち望み、律法を厳密に守ることでそれが早まると考えましたから、ローマ帝国に協力し神の教えに背くサドカイ派を鋭く非難していたのです37節には主イエスが彼らの食事の招待に応じられたとあります。食事に招くことは、これは今もそうですが、尊敬や親しみの意味が込められています。実際、ルカ福音書では先立つ7章36節でもファリサイ派の招待に応じていますし、14章1節もそうです。13章31節では、「ヘロデが殺そうとしている」とイエス様に告げたのはファリサイ派の人々でした。主イエスは安息日ごとに会堂に行って彼らと一緒に神を礼拝していたのです。そこで語られる力ある言葉に、ファリサイ派の人々も一定の尊敬を払っていたので食事に招いたのでしょう。しかし、招かれる度にファリサイ派の人々を鋭く批判し溝が深まっていきました。11章37節以下でも厳しいファリサイ派批判を展開していますが、主イエスは食事に招かれた者としての礼儀を知らない方だったのでしょうか?私は、その根本にファリサイ派への愛があったのだと思います。彼らの宗教的熱心さは貴重であり大切にしたいのだが、神様の御心、すなわち神と隣人を愛することからズレてしまっている。そのことを嘆き、悔い改めを求められたのではないかと思うのです。
それではどこにファリサイ派の悲劇があったのでしょうか?38節以下を丁寧に見ていきましょう。11:38 ところがその人は、イエスが食事の前にまず身を清められなかったのを見て、不審に思った。食事の前に身を清めるとは、具体的には手を洗うことです。イエス様がそれをなさらなかったというのです。千歳認定こども園でも園児たちが食事の前に手を洗いますが、これは衛生上必要なことです。しかし律法に忠実な生活を送っているファリサイ派にとって、食事の前の手洗いは衛生上の問題ではなく、律法の規定に基づいた儀式だったのです。手を洗う儀式を行わずに、主イエスは食べ始めたのです。ですから、彼らは会堂で素晴らしい聖書の解き明かしをするので食事に招いたこの男が、規定を無視することを不審に、そして不快に思ったのです。律法の基本は十戒ですが、具体的にそれを生活に応用するにあたって細かい規定が次第に整えられていきました。成文律法と呼ばれる細かい規定が出エジプト記の後半、レビ記、民数記の後半、申命記などにあります。さらに口伝律法と言う口伝えの規定がありました。先ほどファリサイ派はこれらすべてに通じており、それを守って生活するように努力していたと申しました。具体的にどのような規定があったかを見てみましょう。
食事の前に手を洗う儀式です。使う水の量は卵の殻1個半だけです。殻半分の水を指先に注ぎ注がれた水が手首へと流れる様にします。次に拳固に握った手を反対の手の平で包むように洗う。最後に手首に水を注ぎ水が指先に流れる様に洗うのです。安息日の規定に関しては聖書にも多く出てきますが、こんなのもあります。家が火事になった時衣服を運び出してはならない。運ぶことは仕事をすることになる。しかし、重ね着をして逃げ出すのならばかまわない。安息日にはズック靴を履き、くぎを打って靴底を止めたような靴は履かない。くぎを運んで仕事をしたことになるから。安息日には麦畑の中を歩かない。麦が倒れて踏みつけると実がはじけてしまい、これは脱穀の仕事をしたことになる。聖書にも弟子が安息日に穂を摘み手で揉んで口にして、とがめられる場面があります。旅人が穂を摘むこと自体はかまわないのですが、安息日にてで揉んだことが仕事だというのです。多くのファリサイ派の人々はこれらの規定を真面目に守ろうとしたのです。私たちの目から見ると馬鹿らしくて滑稽ですらあります。実際、聖書には食事の前に手を洗えという律法の規定はありません。聖書にあるのは、祭儀に際して手や足を洗う清めの規定だけです。次第に規定が膨らんで行きそして人々の生活をがんじがらめにしていったのです。日本語では悪事から身を引く時に「足を洗う」と表現しますし、悪事を始める時は「手を染める」です。 主イエスを十字架につけろと叫ぶ群衆を前にして27:24 ピラトは手のつけようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、水を取り、群衆の前で手を洗って言った、「この人の血について、わたしには責任がない。おまえたちが自分で始末をするがよい」。この様に言いました。衛生上の問題を越えて様々に表現されるのは、それだけ人の行動に密接だからでありましょう。
39節以下です。主イエスは厳しい言葉を浴びせます。11:39 主は言われた。「実に、あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。11:40 愚かな者たち、外側を造られた神は、内側もお造りになったではないか。11:41 ただ、器の中にある物を人に施せ。そうすれば、あなたたちにはすべてのものが清くなる。11:42 それにしても、あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。薄荷(はっか)や芸香(うんこう)やあらゆる野菜の十分の一は献げるが、正義の実行と神への愛はおろそかにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もおろそかにしてはならないが。11:43 あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。会堂では上席に着くこと、広場では挨拶されることを好むからだ。11:44 あなたたちは不幸だ。人目につかない墓のようなものである。その上を歩く人は気づかない。」外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。実に厳しい指摘です。本日の説教題を「内側の問題」としました。
ただ、器の中にある物を人に施せ。そうすれば、あなたたちにはすべてのものが清くなる。11:42 それにしても、あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。薄荷(はっか)や芸香(うんこう)やあらゆる野菜の十分の一は献げるが、正義の実行と神への愛はおろそかにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もおろそかにしてはならないが。もし教会が、そしてここに集うクリスチャンである私たちが外側をきれいにする、すなわち礼拝をきちんと守り、聖書に親しみ、そして奉仕を一生懸命したり、たくさんの献げものをしたとしても、そこに隣人に対する愛、慈愛の心がなければそれらはむしろ害となります。芸香(うんこう)はミカン科の灌木ですが防虫効果があります。ファリサイ派の行動を良く表した話があります。彼らは、この芸香(うんこう)の葉を摘む時に、これ見よがしに10枚に1枚取り分けたと言うのです。十分の一の献げものは旧約聖書レビ記などに義務として記されていますが、聖霊が降り教会が誕生して以降も10分の1献金として継承されました。しかし、使徒言行録によれば初代教会は共同生活をしていましたから、10分の1ではなくて10の10でした。教会員は教会の発展とともに社会に住むようになりましたから、10分の10ではなく10分の1にしておきなさい。家族を養いなさい。この様な意味があると聞いたことがあります。事の真偽はともかく、献金や奉仕によって主に仕えるのは大きな喜びです。ですから、私は献金額をいくらにすればと問われた時には「喜びの範囲で献げて下さい。そしてちょっとだけ無理をしてください。必ずや神様はその無理を喜びにかえて下さいます。」この様に申し上げています。十分の一の献げ物もおろそかにしてはならないのです。43節 あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。会堂では上席に着くこと、広場では挨拶されることを好むからだ。ファリサイ派の人々が偽善者だとこれでもか、これでもかと指摘されます。内面が汚いにもかかわらず外側を取り繕う愚かさが指摘されます。
逆にこんな話があります。それまで熱心に教会に通っていた方が「もう教会には行かない。」とおっしゃるのです。理由は「教会は偽善者の集まりだから」というのです。教会の2000年に及ぶ歴史を見れば語っていることと行っていることの矛盾が沢山あります。残念ながら事実です。一つの教会をとっても、おそらく誤りはあったでしょうし、これからもあるのでしょう。したがって「教会は偽善者の集まりだから」との指摘は、残念ながら正しいのです。しかし、そうおっしゃる方にはお尋ねしたいことがあります。「あなたはキリストをご自分の生活の中に、そして人生の中にお迎えしたいと真剣に思ってらっしゃいますか?」と。
最近の音楽教育の充実は素晴らしいものがあり、千葉県習志野市立谷津小学校のオーケストラには本当にびっくりさせられます。もし彼らが演奏するベートーベンの交響曲第5番の演奏を聞きに行ったらどうでしょうか。生徒たちのひたむきな努力に感動するでしょうが、完璧な演奏を期待して行けば失望することでしょう。その時、「ベートーベンって大したことのない作曲家だ」と言うでしょうか。不完全なクリスチャンや不完全な教会の故にキリストを見失ってはいけないのです。私たちは今、日曜の朝ここに集って礼拝を捧げています。主に招かれ集っています。週報にあるプログラムを見て下さい。招きに続くのが悔い改めであり、詩編によって罪の告白をします。集まっている私たちは、それぞれに重荷と破れと痛みをかかえた私たちです。その私たちがみ言葉によって罪の許しをあらためて告げられ、生かし用いてくださる、この神様の御業を賛美します。その恵みに感謝し、力を与えられてこの世へと派遣される。これが礼拝であり教会の中心です。
ある牧師はいいました。「教会は聖なる人の博物館ではなく、罪人の病院なのだ。」と。だとしたら福音を奏でるわたしたちの未熟さを見るのではなく、作曲家であり創造者であられる神の愛を見るのです。「教会は偽善者の集まりだから」との指摘は正しいのですが、その偽善者は、自分の不完全さを知る者です。これがクリスチャンであり教会です。クリスチャンとはその罪がキリストの十字架の死によって赦されたものの、残念ながら未だ不完全な者なのです。そこに神の大いなる愛を見そして感じている者なのです。この不完全さは少なくとも天に召される日まで続くでしょう。
  しかし、私たちは一つの決断をしています。それは、終わりの日に至るまで、キリストに従っていこうとの決断です。偽善者の集まりだと知ったから教会を去るのではなく、偽善者の集まりだと知ったから同じ偽善者の自分も加わるのです。そして一緒にキリストの愛の内を歩むのです。これが主の教会なのです。
11:44 あなたたちは不幸だ。人目につかない墓のようなものである。その上を歩く人は気づかない。律法では死体に触れたものは7日の間汚れるとされており、また墓に触れることも同じように考えられていました。当時、墓石もなくそれと気づきにくい墓もありました。その上をたまたま歩いた人は気づかないままに汚れたのです。あなた方は人々がそれと気づかないうちにその人たちを汚している。なぜ、主イエスはこれほどまで厳しくファリサイ派の人々を非難したのでしょうか?彼らの多くは本当に信仰熱心な人々でした。律法の細かい規定まで実行しようとしていたのです。そして律法を守れない人を裁いたのです。しかし、人は仔細なことにまで集中すると、重要なことを見落としがちになる傾向があります。木を見て森を見ずです。彼らには何かが欠けているのです。
わたしたちの伝統であります改革長老教会の名称は、聖書のみ言葉によって常に改革され続ける教会であり、長老制度によって教会をたてていくことを表しています。私たちは礼拝を守り奉仕や献げものをします。しかし、そこに何かが欠けていたら、これは主イエスの非難をまぬかれません。それは、神と人を愛することです。人を裁き非難することではありません。しかし、人を愛することはそう簡単ではありません。愛することは、その人を諫めないことではないからです。好き勝手にさせることではないからです。真剣に愛すればこそ神様の道から外れた友がいれば諫めるのです。改革長老教会の伝統の中に、戒規の制度があります。長老会が祈りを持って執行する制度です。これは裁きではありません。裁くのは神お一人です。戒規は道を外れたものが悔い改めて主のもとに立ち返る。このための祈りなのです。
いかがでしょうか、イエス様がファリサイ派の人に投げかけられた激しい非難。しかもその非難は結果として自分が十字架の道をとることになる非難です。これはファリサイ派の人の悔い改めを促すための愛の表現ではないでしょうか。細かい規定にがんじがらめになって神の愛と隣人への愛を見失ったファリサイ派の人々。そして至らぬ人を裁く人々。私たちにそれはないでしょうか。私たちはファリサイ派と同じ、偽善者ではないでしょうか。主イエスのファリサイ派の人々への非難は、私たちにも向けられています。主イエスのファリサイ派の人々への命を懸けた愛は、私たちにも向けられています。主に聞き従うこと、すなわち心を開いて聖霊を迎え入れることで内側も綺麗なクリスチャンに、そして内側も綺麗な教会になりたいと思います。祈りましょう。