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山形六日町教会

2017年1月15日

聖書:サムエル記下22章26~31節 ルカによる福音書11章33~36節
説教シリーズ ルカ福音書-61「心の窓」波多野保夫牧師

「目は心の窓」と最初に言ったのは、紀元前400年頃に活躍した古代ギリシャの哲学者プラトンだそうですが、「目は心の鏡」とも言われます。この他にも「目は口ほどにものを言い」などとも言われます。目に関する表現はそれこそたくさんあって、私は高校の漢文の授業で習った格言を覚えています。「大人(たいじん)」これは得を備えたとか度量のある大人物という意味ですが、「大人は大きな目を小さく見開き、小人は小さな目を大きく見開く」というのがありました。実力のない人ほどあるように見せたがると言った意味でしょうか。当時私は目を小さく開いたりしていたのですが、どうやら大人(たいじん)にはなれなかったようです。さらに、「澄んだ瞳」との表現もあります。子供の目の綺麗なことがよく言われます。確かに目をそらすことなく見つめることは下心のなさの表れであましょう。逆に、疲れや紫外線に当たったり、喫煙や飲みすぎ食べ過ぎなど、あまり健康的でないことによって白目が充血したり、濁ったりすることがあるそうです。しかし、最近ではカラーコンタクトで黒目の部分を強調し、サプリメントで白さを出すことも可能だそうですから複雑です。
ではなぜ目の状態と心の状態が昔から結び付けられるのでしょうか。私たちは五感によって外部の状態を把握しているのですが、『産業教育機器システム便覧』という本によりますと、五感それぞれが得る知覚の割合は、視覚器官が83%、聴覚が11%、臭覚3.5%、触覚1.5%、最後の味覚が1.0% だそうです。圧倒的に目から得る情報が多いのです。そんなわけですから目に障害を持ってらっしゃる方のご苦労は大変大きいと言わざるを得ないと思います。今引用しました便覧は1972年発行とかなり古いものですから、テレビやパソコン、スマートホン、さらには車の運転など目を酷使するものが飛躍的に増加した現代ではこの比率はもっと高くなっているのでしょう。年を取ってくると目を酷使した影響が現れるようで、かく申します私も軽い白内障と緑内障があると診断されています。自分の目を大切にするとともに、障害を持たれた方への理解が必要だと思う次第です。

ルカ福音書11章33節以下からみ言葉を聞いて参りましょう。33節 11:33 「ともし火をともして、それを穴蔵の中や、升の下に置く者はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。聖書の中に「ともし火」という言葉が沢山でてきます。主イエスの時代、暗くなってからの明かりは、ランプや松明(たいまつ)でした。光と熱を発するこれらは、光が氾濫している現代よりもはるかに明るかったのでしょう。最近ご一緒にお読みした「十人のおとめの譬え」でも全員が「ともし火」を持っていましたが、予備の油を用意したのは賢い5人だけでした。主イエスが再びわたしたちの所に来て下さる「終わりの日」終末の時にむけて準備をしておくもの。それは主イエスを信じる信仰でありました。
いかがでしょうか、信仰を与えられたステキナ方からあふれ出る輝きであり暖かさを感じた、そういった経験をお持ちの方は多いのではないでしょうか。 エフェソの信徒への手紙5章8節 5:8 あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。光の子として歩む私たちは、暗闇の中に光と暖かさを届けるでしょう。それがクリスチャンです。信仰をいただいたクリスチャンは世の光として輝くのです。そして、そのともし火は、入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。のです。
以前、私は会社勤務をしていた時代には「隠れキリシタン」だったと申し上げました。世間的に、クリスチャンというと何か正直で親切でと言った見方があり、それが「自分と隔たっていることの負い目、あるいはそう見られることが煩わしい。」そんな感覚だったのかと思います。たしかに週末に遊びに誘われた時には“チョット用事があって”と言って断りましたが、“教会に行くので”とはっきり言うことはありませんでした。しかし、後で家内から叱られました。命を懸けて真剣に信仰を守り通した「隠れキリシタン」に対して失礼だというのです。確かに指摘の通りで、私の場合は自分の不信仰を覆い隠す、穴蔵の中や、升の下に ともし火を置く者だったのです。そんな私をも神様は伝道者として立て、そして用いて下さる。神様のご計画は不思議であり、「神のみ名は誉むべきかな。」この思いでいっぱいです。
昨年暮れのクリスマスでは、梅津ご夫妻に信仰告白と受洗の恵みが与えられ、私たちは大きな喜びに包まれました。しかし私はもう一つうれしく感じたことがあります。それは皆さんが一人でも多くの方を教会、すなわち主イエスの下へと誘おうとなさり祈って下さったことです。初めての方、なかなか教会に来られなかった方が大勢集って下さり、共に礼拝する喜びの時でありました。もちろん祈りつつもその祈りが適えられなかった方もおありでしょう。しかし、皆さんが教会に誘おうとする祈り、そして一言声をかけることは、ともし火を燭台の上に置く ことに違いありません。必ずや主が聞いて下さいます。みんなで祈り続けていきたいと思います。
34節以下は、最初にお話しした目に関するたとえ話です。11:34 あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。11:35 だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。11:36 あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければ、ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らすときのように、全身は輝いている。」もちろんここで言われていることは、視力の問題でも、目の輝きでもありません。現代においてそれらはコンタクトレンズやサプリメントでカバーされるとお話ししました。IPS細胞を用いた治療の最前線では、網膜の再生も間近かと伝えられています。35節が譬えの全体を良く説明しています。11:35 だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。私たちの心がキリストへの思いでどれだけ満たされているのか、そして私たちがどれほどキリストの似姿となっているのか、それを調べなさい。この様におっしゃるのです。どうでしょうか、自分の心はどれだけキリストへの思いで満ちているのでしょうか? そのことが問われるのですから、34節 11:34 あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。 この言葉は次の様に読むのです。あなたの体のともし火は、肉体の機関としての目を越えて、その人の内面、心のありようを示しています。キリストに向かった純真な心ならば全身が明るいが、反対によこしまな心、貪欲な心、嫉妬深い心を持つとき、体も暗いのだ。

使徒パウロの勧めの言葉を聞きましょう。
コリントの信徒への手紙Ⅰ 2章16節です。 2:16 「だれが主の思いを知り、主を教えるというのか。」しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています。「だれが主の思いを知り、主を教えるというのか。」これはイザヤ書の言葉(40:13)ですが、確かに神様の御心を知り尽くすことはできません。しかしクリスチャンの心にはキリストが宿って下さっている、だから恐れることはないのだ。自信を持って行動できるのだと述べます。
フィリピの信徒への手紙2章5節 2:5 キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。私たちクリスチャンはキリストが友となって下さっている者同士なのです。友の友は互いに愛し合うのです。
コロサイの信徒への手紙4章2節 4:2 目をさまして、感謝のうちに祈り、ひたすら祈り続けなさい。 ともすれば曇りがちな目を澄んだ瞳として保ち続ける。4:2 目をさまして、感謝のうちに祈り、ひたすら祈り続けなさい。なのです。

2000年前に主イエスが多くの群衆を前にして語られた言葉を、今日、私たちは聖書を通して聞いています。全く社会環境も文化も異なる世界に住んでいます。先ほど目から83%耳から11%の情報を得ていると申しました。その両方を用いるのがテレビです。NHK放送研究所というところの調査によれば、もちろんナガラ見もありますが、85%の人が一日15分以上見ているそうです。最近では全く見ない人も増えていますが、そういった人を含めて、週日には一日平均3時間10分、日曜日には3時間35分テレビを見ており、60歳以上では一日6時間に及ぶそうです。 もちろんテレビが悪いなどとは言いません。社会を日本を、そして世界を知ることが出来ますし、神様の創造された素晴らしい自然を紹介したり、笑いを通して心に安らぎを与えてくれる優れた番組がたくさんあります。
それでは、私たちが聖書に接する時間は一日どれほどでしょうか。60歳以上で一日6時間ということはどうやらなさそうです。そして聖書の素晴らしさをどれほどの方と分かち合えているのでしょうか。イエス様はおっしゃいます。あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。
先ほど私は皆さんに「自分の心がどれだけキリストの思いで満ちているのでしょうか?」この様に問いました。多くの方は「目が澄んでいる時もあれば濁っている時もある」この様に感じられたのではないでしょうか。昔と今とではその比率がだいぶ違うと思われたかも知れません。もちろん今の方がより澄んだ目で有ってほしいと思います。しかし、自分の心は濁っている、絶不調だとの思いから自己嫌悪に落ちることも長い人生においてはあるかも知れません。
先ほど使徒パウロの手紙をいくつかお読みしましたが、その彼も正にそうでした。7:15 わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。7:16 もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。7:17 そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。7:18 わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。7:19 わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。7:20 もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。7:21 それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。7:22 「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、7:23 わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。7:24 わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。ローマの信徒への手紙7章15節以下です。でもそれは大丈夫なのです。キリストに繋がっている限り大丈夫です。なぜなら主イエスは心の暗さを指摘し、非難し裁く方ではないからです。主イエスを受け入れる、主イエスに心を開くのであれば、私たちに希望と勇気を与えて下さる方なのです。
パウロはさらに続けて述べているのです。キリストの十字架の出来事に目を向ける時に、彼は、罪の許しを見るのです。聖霊の働きを見るのです。本日、家にかえられたら、テレビを見る時間を削ってローマの信徒への手紙7章8章をお読みになって下さい。そこには命の言葉が書き記されています。

それではどのようにして、目が澄んでおり全身が明るい状態を増やしていけるのでしょうか。三つのお勧めを述べます。
一番目、私たちの心を豊かにしてくれるもの。心をキリストにむけてくれるもの、神様との関係を深くしてくれるものを選ぶことです。礼拝に集うことに加えて教会の様々なプログラムに参加するのもその一つです。仏教が一人になる宗教であるのに対し、キリスト教は集う宗教です。共に喜びを分かち合うことでその喜びが何倍にもなる。これがキリスト教です。さらに様々な奉仕、教会にあって、あるいは社会にあって仕えることもキリストに心を向けてくれるでしょう。
二番目は何といっても聖書に接する時間を増やすことです。神の言葉にはわたしたちを作り変え勇気づける力があります。
三番目、祈りです。神は聖霊を送って下さり心をキリストに向けて下さいます。

最初に読んでいただいたサムエル記下22章26節以下は、晩年のダビデ王がその生涯において受けた神様のいつくしみを思って歌った詩です。羊飼いであった少年ダビデは主に愛され預言者サムエルから油を注がれて、やがて王として立てられました。若き日にペリシテの巨人ゴリアトを一人で倒しました。連戦連勝のダビデをサウル王は逆恨みをするようになります。ヨナタンとの友情が彼を救うのでした。しかし王位に就いたダビデは部下の妻バテシバを奪うことで主を裏切りましたが、預言者ナタンが伝える主の言葉によって神に立ち返ったのです。これは、そのダビデが あなたはわたしのともし火 と歌った詩であります。
ゆっくりお読みしますので良く味わってください。22:26 あなたの慈しみに生きる人に あなたは慈しみを示し 無垢な人には無垢に27 清い人には清くふるまい 心の曲がった者には策略を用いられる。28 あなたは貧しい民を救い上げ 御目は驕る者を引き下ろされる。29 主よ、あなたはわたしのともし火 主はわたしの闇を照らしてくださる。30 あなたによって、わたしは敵軍を追い散らし わたしの神によって、城壁を越える。31 神の道は完全 主の仰せは火で練り清められている。すべて御もとに身を寄せる人に 主は盾となってくださる。
それでは、私たちの歌う歌はどうでしょうか。説教の後の讃美歌に522番を選びました。その3節です。「キリストにはかえられません、いかにうつくしいものも このおかたでこころの 満たされているいまは。」この様に歌います。わたしたちの「心の窓」は双方向に開く窓です。内側に開くとき、聖霊が入って下さいます。心はキリストへの思いで満たされるのです。「心の窓」は外側にも開かれます。36節 あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければ、ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らすときのように、全身は輝いている。私たちの全身が主が共にいて下さる喜びで輝く時、その光は外に向かって放たれます。33節 入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。
私たちがまず行うべきこと。それは主が共にいて下さること、すなわち主の福音をいつも喜んでいることです。その喜びが大きくなれば、もはや隠すことは出来ません。輝くともし火は燭台の上に置くのです。山形六日町教会と、そこにつどう一人ひとりは、共にいて下さる主イエスキリストによって喜びに満たされ輝くのです。この素晴らしい福音を山形の地に証し伝えるものであり続けたいと願います。祈りましょう