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山形六日町教会

2017年1月8日

聖書:サムエル記上25章1~13節 マタイによる福音書5章43~45節
説教シリーズ サムエルに聞く-5「主は生きておられる」波多野保夫牧師

クリスマスを共にお祝いしてから2週間が、そして礼拝の後に新年のご挨拶をしてから1週間がすでに過ぎました。大変に早く過ぎ去っていく時間に驚いているのは私だけでしょうか。もっとも、聖書には「主のもとでは、一日は千年のようだ」と書かれておりますから、この感覚は私の不信仰が指摘されているのかも知れません。先立って進んでくださる主に従い行く年でありたいと思います。

さて、この説教シリーズ「サムエルに聞く」は今日で五回目になりますが、一回目の10月9日に、少年ダビデがペリシテの巨人ゴリアトに一人で立ち向かい勝利したサムエル記上17章の記事で始まりました。この時ダビデに勇気を与えたもの、それは「主が共にいて下さる」との確信でした。羊飼いであった少年ダビデは、羊の群れが獅子や熊に襲われた時に戦って群れを守りましたが、その時の武器は羊飼いの杖です。そしてその杖はまた羊飼いの記憶装置でもあったのです。「主が共にいて下さり守って下さった」その記憶を杖に刻んだのです。この「サムエルに聞く」説教シリーズでは、私たちの人生に登場する獅子や熊、艱難であったり苦難であったり、あるいは逆に誘惑であったりしますが、これらにどのように対処するのか、この主題のもとに聖書のみ言葉を聞いています。羊飼いは杖に刻んで過去の記憶をとどめました。私たちも、豊かな恵みを記憶しています。日記に書きとどめていらっしゃる方もおいででしょう。しかし、私たちが「ともにいて下さる方」を覚え感じる素晴らしい方法があります。それは先人たちの体験を聞き共感することです。神様の豊かな働きを証言することを教会では「証し」と呼びますが、それぞれの方に働かれる聖霊の豊かさを追体験することは、聞くわたしたちをも豊かにしてくれます。そして最高の証しは聖書の証言です。このダビデの物語は3000年前の出来事であり、主イエスの出来事は2000年前のものです。まったく異なった環境での出来事が、今日わたしたちにとっての証しとなる。なぜでしょうか。なぜ私たちは今日も聖書に中に真理を見るのでしょうか。それは、「神様がわたしたちを愛してくださる」、この真理は3000年前のダビデの時代も、2000年前の主イエスの時代も、そして今日も変わることがないからです。聖書には「主のもとでは、一日は千年のようだ」に続いて「千年は一日のようです。」このように記されております。(ペトロの手紙2:8)神様のご計画は本当に素晴らしいのです。まことに「主のみ名は誉むべきかな」であります。
さて、読んでいただいた25章1節には「サムエルが死んだ」とあります。説教シリーズの題は「サムエルに聞く」ですが、今までサムエルが登場したのは、エッサイのもとを訪れ、少年ダビデに油を注ぎ、やがてイスラエルの王にするとの神様のご計画を表した預言者であり祭司としての姿だけでした。ですからこの説教シリーズは正確には、「サムエル記に証しされた神様の働きに聞く」というのが相応しいのです。私たちはダビデを通して働かれる神様の御業を見るのです。
ここでサムエルの死に際して、少年サムエルの召命の場面をぜひ見ておきたいと思います。祭司エリの下で神に仕えていた少年サムエルに、ある夜神様は呼びかけられました。サムエルはそれが祭司エリの呼びかけだと思い、エリのもとに行きますが彼は「私は呼んでいない」と言います。さらに二度繰り返された時、祭司エリは「それは神様の呼びかけに違いない。その時はこういいなさい。」と教えました。サムエル記上3章10節です。3:10 主は来てそこに立たれ、これまでと同じように、サムエルを呼ばれた。「サムエルよ。」サムエルは答えた。「どうぞお話しください。僕は聞いております。」 私はこの部分を掛け軸に書かれていました文語で記憶しています。「僕(しもべ)聞く、主よ語り給え」 預言者サムエルの生涯は正に主の語られたことを聞き、人に伝える生涯であったのです。今日、主は聖書を通して、またその解き明かしであります説教、さらには聖礼典によって多くを語られます。「僕聞く、主よ語り給え」この信仰の言葉を六日町教会の共通の言葉にしたいと思います。

前置きが大変長くなってしまいましたが、聖書に聞きましょう。サムエル記上25章はダビデ一行がサウル王の追手を逃れて荒れ野いた時の遊牧民の長ナバルとその妻アビガイルが登場する物語です。物語ですので聖書箇所がどうしても長くなってしまいます。是非サムエル記全体を家に帰ってから読んでみてください。ただし、明日学校やお勤めの方は、面白くて止められなくなりますので時間に気を付けて下さい。4節に 荒れ野にいたダビデは、ナバルが羊の毛を飼っているのを聞き とあります。冬を越した春先のことです。遊牧民の長は収穫祭の様な盛大な祝宴を設けて人々に振る舞まったそうです。さらに7節によればダビデ一行はナバルの羊を守る仕事をしていました。従って毛刈りの祝いの日に、ダビデが従者に食料など分け前をもらいに行かせたのは普通のことでした。10節11節 10 ナバルはダビデの部下に答えて言った。「ダビデとは何者だ、エッサイの子とは何者だ。最近、主人のもとを逃げ出す奴隷が多くなった。11 わたしのパン、わたしの水、それに毛を刈る者にと準備した肉を取って素性の知れぬ者に与えろというのか。」 これがナバルの答えです。ダビデは当然、怒りに燃えます。12 ダビデの従者は道を引き返して帰り着くと、言われたままをダビデに報告した。13 ダビデは兵に、「各自、剣を帯びよ」と命じ、おのおの剣を帯び、ダビデも剣を帯びた。 やくざ映画で殴り込みが始まる場面のようです。
しかし、ここで予想外のことが起こりました。事態を知ったナバルの妻アビアガイルの行動です。彼女は急いで パンを二百、ぶどう酒の革袋を二つ、料理された羊五匹、炒り麦五セア、干しぶどう百房、干しいちじくの菓子を二百取り、何頭かのろばに積み、従者に命じて ダビデのもとに向かいました。そしてダビデの足元にひれ伏して告げたのです。24節以下です。25:24「御主人様、わたしが悪うございました。お耳をお貸しください。はしための言葉をお聞きください。25:26 主は生きておられ、あなた御自身も生きておられます。あなたを引き止め、流血の災いに手を下すことからあなたを守ってくださったのは主です。彼女はこの様に言ってダビデに贈り物を渡しさらに続けます。25:31 いわれもなく血を流したり、御自分の手で復讐なさったことなどが、つまずきや、お心の責めとなりませんように。主があなたをお恵みになるときには、はしためを思い出してください。」25:32 ダビデはアビガイルに答えた。「イスラエルの神、主はたたえられよ。主は、今日、あなたをわたしに遣わされた。25:33 あなたの判断はたたえられ、あなたもたたえられよ。わたしが流血の罪を犯し、自分の手で復讐することを止めてくれた。25:34 イスラエルの神、主は生きておられる。主は、わたしを引き止め、あなたを災いから守られた。あなたが急いでわたしに会いに来ていなければ、明日の朝の光が射すころには、ナバルに一人の男も残されていなかっただろう。」「平和に帰りなさい。あなたの言葉を確かに聞き入れ、願いを尊重しよう。」これが今日私たちが聞くダビデの物語です。「僕(しもべ)聞く、主よ語り給え」ですが、ここで主は何を語られるのでしょうか。そうです。「怒り」について語られています。怒り、怒ったことのない方はおいででしょうか? 怒りに燃えることはクリスチャンに相応しくないことと思われるかも知れません。しかし、神様も怒ることがあります。退廃の町ニネベを滅ぼすと告げるためにヨナを派遣されました。私たちは神の似姿に創られているのですから、怒ることは当然なのです。
澤田美喜さんという女性の話です。彼女は三菱財閥の創始者岩崎弥太郎の孫にあたりますが、岩崎家は由緒ある仏教の家系でしたから、娘時代に興味を持った聖書は祖母に取り上げられ焼かれてしまいました。外交官、澤田廉三氏と結婚後、自由に聖書を読めることが大きな喜びだったと述べています。彼女は、私の母教会があります平塚市の隣、大磯町に「エリザベス・サンダース・ホーム」を設立しました。1948年、戦後間もなくのことでした。当時「混血孤児」これは現代では使いたくない言葉ですが、歴史的事実なのでそのまま申し上げますが、「混血孤児」が社会問題化していました。進駐軍兵士との間に生まれた幼児が兵士の帰国と共に生活が成り立たなくなったことなどから、農家の前に捨てられたり、運河やどぶの中で遺体が発見されたなど、悲惨な状況に置かれていたのです。彼女はその現実を前にして怒りを覚え立ち上がりましたが、世間の反応は大変に冷たかったそうです。「日本を滅ぼした敵の子を救うなんて物好きな」「混血孤児は生きていても苦しむだけだから、小さい時に死なせるのが慈悲というものだ」 さらに進駐軍は、混血孤児たちに世界の注目が集まることを恐れ「混血児の施設には反対だ」と言ったのです。「財閥娘の道楽だ」ともいわれましたが、当時は財閥解体後であり岩崎家のほとんどの財産は没収されていました。施設認可に必要な金額、当時のお金で400万円は大変な苦労の末、世界からの浄財で賄われました。しかし、それは次の苦労の始まりでもあったのです。戦後の混乱期において子供たちに食べさ・着せ・教育する苦労。さらに、肌や目の色の違いからいじめにあう子供のためには「ステパノ小学校」そして「ステパノ中学校」を設立しなければなりませんでした。彼女がしばしば口にした言葉が伝えられています。「信仰半分・意地半分」キリストから託された務めと命を預かった責任感です。彼女の不屈の戦いはこの現実に対する怒りに支えられていたのです。
神は激しく怒られる方です。私たちの犯す罪・神様をないがしろにすることに対して激しいく怒る神です。その怒りが頂点に達した時に罰が下されます。これが、主イエス・キリストの十字架のできごとなのです。神の激しい怒りの裏には激しい愛があることを私たちは見るのです。そしてその神に似て作られたのが私たちです。澤田さんの激しい怒り、理不尽さに対する怒りは「信仰半分・意地半分」と自らが言う行動を続けさせたのでありました。
サムエル記上25章13節です。25:13 ダビデは兵に、「各自、剣を帯びよ」と命じ、おのおの剣を帯び、ダビデも剣を帯びた。祝いの日の贈り物を願い求めるダビデに対するナバルの答え「ダビデとは何者だ、エッサイの子とは何者だ。最近、主人のもとを逃げ出す奴隷が多くなった。25:11 わたしのパン、わたしの水、それに毛を刈る者にと準備した肉を取って素性の知れぬ者に与えろというのか。」この答えにダビデは怒りに燃えました。そして怒りは復讐へと向かったのです。一線を超える時、あるいは方向を間違えた時に問題がおこります。物ごとを責任をもってしっかり行うこと。必要ですし素晴らしいことです。しかし、一線を超えれば完璧主義を誇り人を裁くようになります。人を愛することですら方向を間違えれば、激しい嫉妬であったり、昨今問題とされているストーカー行為と無縁ではありません。そこには何かが欠けているのです。その結果怒りを向けるべき方向を誤ってしまうのです。ダビデはどのようにして復讐の思いを克服できたのでしょうか。それはナバルの妻アビガイルの登場です。今でこそ日本の多くの教会が婦人たちによって支えられている現実がありますが、当時の女性の地位は低く、まして自分の夫のことで復讐に燃える者の前に出て申し述べることは、大きなリスクを伴う行為でした。彼女は言います。 25:24「御主人様、わたしが悪うございました。お耳をお貸しください。はしための言葉をお聞きください。25:26 主は生きておられ、あなた御自身も生きておられます。あなたを引き止め、流血の災いに手を下すことからあなたを守ってくださったのは主です。」彼女はさらに続けます。 25:31「いわれもなく血を流したり、御自分の手で復讐なさったことなどが、つまずきや、お心の責めとなりませんように。主があなたをお恵みになるときには、はしためを思い出してください。」リスクを負ってのアビガイルのこの言葉にダビデはハットして復讐に燃える自分のおろかさに気づいたのです。無益な流血は避けられました。その時のキーワードはアビガイルの言葉に2つある「主」という言葉でした。自分がなそうとしていることを、神はどの様にご覧になるのか。
この出来事にはその背景となる二つの要因があります。一つは既に指摘しました。なんとしても皆殺しの事態を避けたいという強い思いから出たアビガイルの勇気です。二つ目は平素からのダビデの主に対する信頼です。彼は若き日に油を注がれました。神によって選ばれたのです。そして、羊飼い時代の獅子や熊との戦いに始まり、ゴリアトとの戦い、サウル王に命を狙われること6回に及ぶ危機、ヨナタンの友情、全てにおいて神の恵みを感じていました。今、私たちは油を注がれることはありません。その代わりに水と聖霊を注がれます。洗礼です。この世の王として立てられる人はおそらくこの中にはいないでしょう。しかし、私たちは世界の王の僕となり、最も愛されている者なのです。まだ洗礼を受けていらっしゃらない方は、この王であられるイエス・キリストに招かれているのです。25章32節以下です。25:32 ダビデはアビガイルに答えた。「イスラエルの神、主はたたえられよ。主は、今日、あなたをわたしに遣わされた。25:33 あなたの判断はたたえられ、あなたもたたえられよ。わたしが流血の罪を犯し、自分の手で復讐することを止めてくれた。25:34 イスラエルの神、主は生きておられる。主は、わたしを引き止め、あなたを災いから守られた。あなたが急いでわたしに会いに来ていなければ、明日の朝の光が射すころには、ナバルに一人の男も残されていなかっただろう。」もちろん私たちは敵を皆殺しにしようなどという復讐を思うことはありません。しかし、使徒パウロに次の言葉があります。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。(ロマ書 12:19)これは、心に留めるべき言葉です。
一方、私たちが主のために働くときに怒りが必要なことがあります。それは義憤と呼ぶのが正確でしょう。アドレナリンの分泌によって全身に力がみなぎるのです。アビガイルであり澤田さんのリスクを負った行動がそうでした。私たちの神は怒る神だと申しました。その神に似た姿に作られた私たちも怒るのは自然ですし、怒って良いのです。そして力を出すのです。問題はその方向です。
「主は生きておられる、主が共にいて下さる」この思いに生きる時、怒りの方向を誤ることはありません。たとえ一時誤ったとしても立ち返ることが出来ます。これが今日聖書に見て来たダビデの姿なのです。先ほど読んでいただいたマタイ福音書に触れる時間はもうありません。しかし、敵を愛しなさいとあります。そうです。私たちは敵であるわたしたちをまず愛してくださった方、イエス・キリストを知っているのです。そしてこのお方はいつも共にいて下さる方なのです。祈りましょう。